たぶん平穏な日々 その5


 香気を含んだ暖かな風がそよりと吹き、莉来の髪をふわりと撫でてゆく。
 庭先にはいくつものテーブルが設置され、白いテーブルクロスが眩しいくらいに春の陽射しを照り返している。
 今日は五月五日。いわゆる端午の節句であるが、どうにもそれだけとは思えないような節もある。思えばご主人様がいきなりパーティーをしようなどと言い出したのが始まりだったのだ。まさか今更子供の日とか言う訳でもないだろうとは思うのだが、あのご主人様のこと、どんな茶目っ気をおこすか知れたものではない。
「あ〜ぁ・・・」
 朝から何度目かの溜息をつく。
 実は今日は莉来の誕生日でもあったのだが、みなそのことには触れずに忙しそうに働いている。別に祝って欲しいと言う訳ではないのだが、しかし凛さえやって来ないというのが少しだけ気に入らない。なんで気に入らないのか自分でも判らないが、とにかく気に入らない。そしてそんなことを考えている自分がまた、気に入らない。
(凛お姉ちゃんのことだから、きっと朝からやって来ると期待していたのに・・・って、え? 期待? ちちち、違う違う。えっと、期待じゃなくて・・・そう、警戒。警戒してたの、うん)
 わたわたと、自分の思考に修正をかける。まぁ修正をかけようがどうしようが、莉来の思惑とは異なり凛がやって来なかったことまでは変わらないし、未だにその姿を見ていないということも変わらないことではあったのだが。
 確かに凛は普段からどこか抜けたところがあるし、天性のボケであることは疑いようがない。だが、こと莉来に関してはそれらの要素が嘘であるかのように精彩を放つというある意味特異な才能を有してもいる。その凛が莉来の誕生日に現れないなどと言うことは有り得べからざることであった。
 それとなく琉奈に訊いたところ、昨夜から厨房に篭り切りで一心に料理を作り続けているらしい。一体何を作っているのかとも思うが、なんでもご主人様の要請を受けてそれに掛かり切りになっていると聞かされてはそれ以上突っ込んで聞く訳にはいかなかった。
 だが、考えてみればそれも妙な話だ。確かに凛の料理の腕はかなりの高水準にはあるものの、幼い頃から家事全般をこなして来た琉奈に較べればやや見劣りがするのもまた確かなことだ。それであるにも拘わらず凛にさせると言う事に如何なる理由があると言うのだろうか。
 まぁ、なんにしても、凛に会えないのはご主人様のせいだと言う事だけははっきりしているようではあったが。
「ん〜っ!」
 大きく伸びをしながら碧が庭に現れる。確か朝から凛の手伝いに入っていた筈だが、なぜここにいるのだろうか。
「あ、碧さん。終わったんですか?」
 パーティーのセッティングをしていた琉奈が碧に気付き、声をかける。琉奈の後ろで手伝っていたれつ子はまだまだやる事が多いらしく、会釈をするだけにとどめている。
「最後の大物に取り掛かるからと、追い出されてしまいましたわ」
 やれやれ、と肩を竦める。
「くすくす、気合入りまくりですか」ちらりと莉来を見る。「愛されちゃってますね」
「・・・その割に莉来さんは御機嫌斜めのようですわよ?」
「ほら、昨夜から顔も合わせていないじゃないですか」
 なんとなく楽しそうな琉奈に較べ、腑に落ちぬような碧。
「今までも会わない日などいくらでもあったでしょう?」
「目と鼻の先にいるのに会えないんですよ? ただ会えないってこととは違いますよ。これだから乙女心のない人はいやですよねぇ」
 あーやだやだ、とか言いながら肩を竦めて小莫迦にしたよう鼻先で笑う琉奈。ぴくり、と碧の柳眉が撥ね上がる。
「聞き捨てなりませんわね。わたくしのどこに乙女心がないとおっしゃるのですか」
「あらぁ? わたしは別に碧さんのことだなんて言ってませんよ。それとも心当たりでもあるんですかぁ?」
 してやったりとばかりにニヤニヤと笑う琉奈。
「わ、わたくしの胸には夢も希望も乙女心もたくさん詰まってましてよ!」
 ぐいっと胸を張る。
「じゃあきっと、詰め込み過ぎて原型を留めなくなってしまったんでしょうね!」
「な、なんですって!?」
 琉奈と碧に挟まれた空間が急速に帯電し、バチバチと火花を散らす。ゴゴゴゴゴ───と、どこからかジョジョで使われそうな擬音も聞こえて来る。
「もう、二人ともいいかげんにしてよ。れつ子お姉ちゃんに全部やらせるつもりなの?」
 腰に手を当て、疲れたように莉来がこぼす。
「「・・・あ」」
 琉奈と碧の視線がぱたぱたと忙しそうに走るれつ子に向けられる。
「ごめんなさい、れつ子ちゃん」
「いいえ、私はお姉ちゃんのお役に立てるならそれだけで嬉しいんですよ」
 決まりが悪そうに頭を下げる琉奈と碧。れつ子はやわらかな、日溜まりのように暖かい笑みで応えるだけで、いっかな二人を責めようとはしなかった。
「れつ子ちゃん、本当になんていい子なんでしょう」
 きゅっとれつ子を抱きしめる。それだけでれつ子は真っ赤に染まり、蕩けたようになってしまう。
「れつ子さんは本当に良いかたですけれど、お付き合いするかたはよく考えられた方がよろしくてよ」
「碧さん、ご主人様に相手にされないからと言って妬かないでくださいよ。わたしとれつ子ちゃんは深い愛情と信頼で結ばれているんですから」
 その言葉に、再び碧の柳眉が撥ね上がる。特に前半部が効いているようだ。
「琉奈さん、今なんておっしゃいましたの?」
 努めて感情の色を消し、ともすれば引き攣りそうになる笑顔をかろうじて抑えつける。
「妬かないでください、ご主人様に相手にされない碧さん」
 一音一音、はっきりと発音する。
 ぷつり、と、何かが切れるような音がした。
「なぁんですってぇぇぇえぇ!?」
 かっ! と稲妻が走り、二人の背後にタツノオトシゴと張子の虎が雲を捲いて浮かび上がる。もちろんイメージ映像だが。
「「誰ですかっ、さっきから妙な演出をするのはっ!?」」
 琉奈と碧が揃って振り返る。───と、そこにしゃがみこんでプロジェクターを操作しながら手を振っていたのは見覚えの無い一組の男女であった。二人とも若く、また整った容姿の持ち主であるが、一見して年齢を言い当てるのは難しそうな、なんとも年齢不祥な二人組みである。
「どちらさま・・・?」
 と、碧が訊くより早く、
「お父さんっ!? お母さんっ!?」
 莉来が、駆け出していた。
「莉来ちゃんのご両親!?」
 琉奈の目が丸くなる。いや、琉奈だけではない。碧もれつ子も、同じように目を丸くして口をあんぐりと開けている。
「やぁ、莉来。元気にしていたかい?」
 男が莉来の頭に手を置き、くしゃくしゃと撫でる。確かによく見れば莉来と似ていないこともない。細身だがひ弱な感じはなく、適度に引き締まった体躯は精悍とも言っていいだろう。
「どうして・・・? 海外に行ってるんじゃなかったの?」
 まるでそこにいるのが信じられないとでも言うかのように、莉来は呆然と立ち尽くしている。
「僕たちが莉来の誕生日を忘れるわけがないだろう? なぁ、ハニー?」
 後ろにひっそりと立つ女性に振り返る。
「あらあら、ダーリンったらうそばっかり。こちらのご主人から連絡を頂くまでは一日間違えていたじゃありませんか」
 鈴が鳴るような涼やかな笑い声だった。亜麻色の長い髪はゆるやかなウェーブを描いてふわりと広がっている。青い瞳は穏やかな色を湛えて静かに二人を見守っているかのようであった。
「んー、まぁ日付変更線の向こうにいたからねぇ。…おやおや、莉来、その目は疑っているね? 本当に忘れていたわけじゃないんだよ。莉来は僕たちの大切な宝物だもの、忘れたりする筈ないじゃないか」
 そう言って莉来に頬擦りする。
「しかし、こちらのご主人はいい人のようだが、やはり莉来を置いてゆくべきではなかったようだな」
「お父さん、それってどういう意味?」
 父親の腕から離れ、窺うような視線を送る。
「いや、先刻から見せていただいていたのだがね、どうにも人間関係はギスギスしているようだし───」
 ギクリ、とする二人。誰と誰のことかは言わないが、たらりと冷や汗を垂らしていたりなんかする。
「莉来もあまり楽しそうには見えなかったよ」大仰に肩を竦め、嘆息する。「折角、こちらのご主人が莉来の誕生日を祝ってくれるというのに…。ねぇ、ハニー、やっぱり莉来は僕たちと一緒にいたほうがいいんじゃないかな」
「ダーリンったら本当に心配性なのね」右手を口元に当てながらくすくすと笑う。「わたしも家族は一緒にいたほうがいいとは思いますけど、でも、莉来ちゃんはどう思っているのかしら?」
 穏やかな口調ではあるが、どこか楽しげで悪戯っぽい響きがある。まるで少女のまま大人になってしまったかのような、そんな錯覚さえ覚えてしまう。
「ちょちょちょ、ちょっと待って。お父さん、今なんて言ったの? ご主人様が、あたしの誕生日を───?」
 慌てふためく莉来というのは滅多に見られるものではない。はたと気付き、琉奈と碧を睨む。
「琉奈っち、碧っち、知ってたでしょ!?」
 詰問するかのような莉来の威勢の前に、二人は困ったような笑みを浮かべる。
「あはは、バレちゃった」「まぁ、いずれは知られることでしたけど」
 どうにも悪びれた様子はない。
「じゃあ、凛お姉ちゃんも・・・? あ、まさか昨夜からのって・・・」
「お察しの通りですわ。莉来さんをお祝いする為に一睡もせず、心をこめて今でも作り続けているのですわ」
 ご主人様が琉奈ではなく凛に任せる筈である。いや、むしろ凛の方から頼み込んだのかも知れない。
「どうせバレたんだから言っちゃうけど、もともと莉来ちゃんの誕生パーティーを開こうって言いだしたのも凛ちゃんなのよ。そうしたらご主人様まで乗り気になって・・・で、まぁこんなに派手になっちゃった訳なんだけど」
 琉奈が苦笑するが、しかしそこには微笑ましさのようなものが見え隠れしており、莉来を祝う気持ちは誰しも同じようであった。
「莉来ちゃん、黙っていてごめんね。でもとーめおにいちゃんが莉来ちゃんを驚かせるんだーって嬉々としていたから・・・ごめんなさい」
 れつ子が申し訳なさそうにぺこりと頭を下げる。しかし、今の莉来にはそんなことはどうでも良かった。
「凛お姉ちゃん・・・」
 恥ずかしかった。
 凛が祝ってくれないと思ったことが。誰も祝ってくれないと思ったことが。
 凛も、琉奈も、碧も、れつ子も、ご主人様も───誰もが莉来を愛し、祝ってくれている。そのことに気付き、慙悸にかられる。
 居た堪れなくなり、駆け出す。今はただ、凛に逢いたかった。
「ほほぅ、うちの子もあんな顔をするんだねぇ」
 ニヤニヤと笑いながら腕を組む。どこか満足そうに聞こえるのは気のせいだろうか。
「さてさて、どんな子がうちの莉来を誑かしてくれたのかな」
 興味津々といった体を隠さず、そそくさと莉来の後を追う。
「あらあら、娘のラブシーンを覗こうだなんてしようのない人」
 右手のひらを頬にあて、左手を右肘に添える。小頸を二十度程傾けてふっと苦笑。言葉の内容とは裏腹に、こちらも楽しそうだ。似たもの夫婦なのかも知れない。
「やぁ、いらしていたのですね」
 庭を散歩していたらしいご主人様がこちらに気付いて近寄り、その後ろに二人の男が続く。一人はれつ子のご主人様のThe fighting million instructions per second、略してビザプロである。なんでやねんとか言うツッコミは遠慮させてもらうとして、もう一人は凛のご主人様の梁瀬安曇である。二人とも莉来を祝う為にやって来たようだ。暇人と言うしかないだろう。
「本日は娘の為にこんなに盛大なパーティーを開いていただき、お礼の言葉もございません」
 楚々とした物腰で丁寧にお辞儀をする。
「いや、お礼なら僕じゃなくて凛ちゃんに言ってあげてください。僕は彼女の熱意に打たれただけですから」
 あはは、とちょっと恥ずかしげに笑うご主人様。
「先程もそのお名前が出ていたようですが、凛さんとはどのようなかたなのでしょう?」
「まぁ、会っていただくのが一番ですよ。でも、そうですね、いい子だってことだけは言っておきますよ」
 ご主人様、ちょっと格好つけすぎ。

「初めまして、莉来です。これからよろしくお願いします」
 そう言って、その少女は頭をちょこんと下げた。
 これが、彼女が初めてこの屋敷に来た時の第一声だった。
「顔を上げて、莉来ちゃん」優しく声をかけ、莉来が頭を上げるのを待つ。「やぁ、初めまして。僕がこの屋敷の主のとーめです。今日から莉来ちゃんには当家のメイドとして働いてもらうことになるけど、いいかな?」
「はい、承知しています」
 物怖じせず、眼鏡の奥からまっすぐにご主人様を見つめ返す瞳は大きく、湖のような静けさを湛えたブルーであった。歳に似合わぬ落ち着きと強靭さをその瞳に見出し、ご主人様は驚きを隠せなかった。
 莉来の両親は仕事の都合上海外を転々とすることが多く、これは莉来の教育上望ましい状態ではないと思った結果、親交のあったご主人様に預けられることになったのである。預け先を間違えたのではないかとの声も聞こえて来そうではあるが。
「莉来ちゃんの勉強を見てくれるのは彼女だよ。───碧」
「はい」
 ご主人様に呼ばれ、長身の女性が進み出る。百七十センチほどもあるだろうか、しかしすらりと均整のとれた体躯は大柄さを感じさせず、モデルだと言っても通じるのではあるまいか。
 碧は全国模試で一位を取ったこともある才女だから、勉強の方は彼女に任せておけば問題ないだろうとご主人様は思っている。
「よろしくお願いいたしますわね、莉来さん」
 穏やかに笑いかける碧。一見冷たそうに見える彼女だが、笑うと意外なほどに優しそうな表情になる。
「は、はい。よろしくお願いします」
 どきりとした内心を押し隠し、平静を装う。
「そして、こちらが琉奈。家事一般は彼女に教えてもらうといい」
 炊事、洗濯、掃除と言ったことはほとんど琉奈の仕事である。無論、碧もそれらのことはするが、彼女の主な仕事は事務や家政であって、メイドと言うよりも執事や家宰に近い。
「よろしくね、莉来ちゃん」
 天真爛漫と言う言葉が似合いそうな快活とした琉奈と優しそうな碧を見て、莉来は憧れにも似た感情を覚えていた。もっとも、そのような気持ちはほんの数日で吹き飛ぶことになるのだが。
 この屋敷での生活は楽しいものになりそうだ。莉来はそう思った。
 それが、一年前のお話───

 この屋敷の厨房は広間よりも三部屋奥まっただけの位置に配されており、庭からでもそう遠くわけではない。だが、今の莉来は気ばかりが逸り、その僅かな距離がいつもの二倍にも三倍にも感じられていた。
 ものの二分とかからずに着いた筈なのだが、莉来の息は切れ、肩がせわしなく上下する。
「りん・・・」
 と言いかけ、声がかすれることに気付く。こんな声を凛に聞かせることはできない。まるで逢いたさの余り脇目もふらずに走って来たかのようで恥ずかしいではないか。その通りではあるのだが。
「・・・あーあー、テステス。・・・うん、大丈夫」
 声の調子を整えて、改めて厨房の扉を見上げる。
「凛お姉ちゃん、いるの?」
 扉の向こうからわたわたと慌てたような気配が伝わって来る。おそらく莉来の声に驚いているのだろう。
「り、莉来さんですかっ!? すみません、今は手が放せないのですが、何か御用でしょうか?」
「入ってもいい?」
 その声にぴたり、と凛の動きが止まる。そしてまたすぐにわたわたと慌てたような気配が伝わって来る。
「だだだ駄目ですっ。今はなんぴとたりとも入ってはいけません。入ったら泣いちゃいますよ?」
 なんとも間抜けな説得だった。凛は絶対にネゴシエイターにはなれないだろう。しかし莉来はそれ以上押しの交渉をするつもりはないようで、ふぅ、と息をつく。
「じゃあ、出て来て」
「そそそれも駄目ですっ。あの、私、ちょっと寝不足気味でして、その、莉来さんにお見せできるような顔じゃ・・・」
 しどろもどろになって応える凛。好きな人にみっともない姿を見られたくないというのは、恋する乙女であれば当然の気持ちであっただろうか。
「凛お姉ちゃんがぼけた顔してるのは今に始まったことじゃないでしょ。いいから出て来て」
 わりとひどいことを言う。だが、莉来の小さな手はきゅっと握り締められ、微かに震えていた。扉の向こうから「莉来さん、ひどいです。・・・くすん」と小さな声が聞こえたが、とりあえず無視をする。
「い・い・か・ら、出て来るのっ。出て来ないと、嫌いになっちゃうから!」
 まるで駄々っ子のような理不尽極まりない物言いであるが、凛には絶大な効果があったようだ。
「わ、判りました、出ます。出ますから、お願いします、嫌わないでください。あ、でも、ちょっとだけ待っていただけますか?」
「ちょっとだけ、ね」
 憮然とした面持ちで応える。つい口を衝いて出たとは言え、まるで子供のわがままのようではないか。どうして凛のことになるとこんなにも調子が狂うのだろう。判らない。判らないけど、でも、けして嫌な感じじゃない。ちょっとだけ頭に来るけれど、それにだって不思議な心地良さがある。
 ぱたぱたという軽い足音に続いて水の流れる音がする。顔でも洗っているのだろうか。水の音はすぐに止まり、さほど待たされることもなく厨房の扉が開かれた。
「お待たせいたしました。あの、莉来さん、どのような御用件でしょうか・・・?」
 頤に指を当て、小頸を傾げながら莉来を窺う。寝不足と言ってはいたが、目元の涼やかさに翳りはないようである。寧ろ莉来の為になにかができるという喜びからか、いつもよりもにこやかなように見える。寝不足でハイになっているだけという可能性も否定できないが。
「凛お姉ちゃん・・・」
 綺麗だ、と思った。生クリームなどがついて少し汚れてしまっているが、それでも莉来には美しく思えた。もともと凛は透き通るように繊細な容姿の持ち主である。北欧の血が入っている、とも言っていただろうか。普段は天然ボケのおかげでやや間の抜けたような印象があるが、時としてはっとするほどの美しさを見せることがある。今がそうだと言う訳ではないが、莉来は惹き寄せられるかのように凛に凭れ掛かっていた。
「…凛お姉ちゃん、ごめんなさい…」
 自然に、言葉が出ていた。いつもの莉来であれば、このように己の真情を吐露するようなことはしなかったであろう。いや、できなかったであろう、と言うべきか。
 凛はそれだけで全てを悟り、莉来をそっと抱き寄せると、走って来たせいで乱れてしまった栗色の髪を優しく撫で付けた。
「気付かれてしまいましたか…。ごめんなさい、莉来さん。淋しい思いをさせてしまったようですね。でも、私も淋しかったのですよ」
 きゅ、と莉来の頭を抱きしめる。莉来はやわらかな暖かさと心地の良い鼓動を感じ、目を閉じた。
「淋しくなんて…なかったもん…」
 自分でも嘘だと判っている。嘘でないのなら、どうして一晩逢えなかっただけなのにこんなにも懐かしいのだろう。どうして、こんなにも慕わしいのだろう。
 莉来の腕が、そっと凛の背中にまわされた。

(ほう、あの子が・・・か。ふむ、優しそうな子ではあるかな)
 まさか物陰から見ている者がいようなどとは露ほども思わぬ二人は、お互いのぬくもりをいとおしむかのように、やわらかな抱擁を続けている。
(僕たちくらいにしか甘えた姿を見せない莉来が、あれ程までに心を許すとはね・・・お父さん淋しいよ、ぐすん)
 黒縁の眼鏡を軽く押し上げ、流れてもいない涙を拭う真似をする。誰も見ていないというのに、芸の細かいことである。
(しかし、自分の娘が百合だというのは・・・まぁ、それはそれで・・・いや、そうじゃなくて・・・)
 莫迦な考えになりそうになり、二三度軽く頭を振る。
(うむ、しかし、あの子もなかなか可愛いが、やはり莉来の方が可愛いなぁ)
 にへら、と相好を崩して莉来に見入る。親莫迦であった。
「ふふっ」
 小さな含み笑いが洩れる。と、まさかそれが聞こえたとも思えないが、ふと莉来が振り返る。
「「・・・・・・」」
 目が合った。
「…やぁ」肘は四十五度で直角に、手は指を揃えてまっすぐに。しゅたっと音が聞こえそうな機敏な動きで挨拶をする。「じゃ、そう言うことで」
「待って」
 くるりと踵を返した父に素早く駆け寄り、その上着の裾を掴む。
「はっはっは、お父さんに甘えたい気持ちは判るが、裾が伸びてしまうから放しなさい。それと、お父さんは何も見ていないからね」
 余計な一言は時として身を滅ぼす元であるが、それはこの時にも当て嵌まるようであった。
『10t』
 そう刻まれた巨大なハンマーが莉来の手の中にあった。
「いけません、莉来さん。お父様に手を上げるなど、人としていけませんっ」
「「お父様?」」
二人の間に割って入った凛の台詞に、莉来と父の声がハモる。
「え…だって、莉来さんのお父様でしょう? 以前、莉来さんに見せていただいた写真にそっくりですよ」
 頤に指を当て、小頸を傾げる。
「まぁ、そうなんだけどね」
「それに、もしかしたら将来私のお義父様になるかも知れませんし」
 いや、無理だろう、普通は。
 両手で頬を挟み、恥ずかしそうに身を捩る凛と、それへ冷ややかな視線を送りながら、振り上げかけたハンマーを下ろす莉来。それらを楽しそうに見つめる父の瞳は穏やかであった。
「・・・あ!」
 開いた手を口元に当て、素頓狂な声を出す凛。
「どうしたの?」
「いえ、その、私まだお料理の途中でした・・・焦げていなければいいのですけど」
 どうしてそんな事を忘れるのか。春先の陽気で脳味噌まで暖かくなってしまったのだろうか。
「なんでそんなことを忘れるのっ!?」
「り、莉来さんがいけないんですよ・・・可愛すぎるから・・・ぽ」
「う・・・」
 先程の抱擁を思い出し、顔から火が出そうになる。恥ずかしくてまともに顔を見ることができない。
「も、もうっ、莫迦なことばかり言ってないで、早く仕事に戻って!」
 なにやら理不尽ではあるが、二人ともそんなことを気にした様子はない。莉来に叱られたと言うのに、凛はどこか嬉しそうでもある。
「はいっ、期待して待っていてくださいね。それと、すみませんが碧さんか琉奈さんをお呼びいただきたいのですが」
「れつ子お姉ちゃんはいいの?」
「力仕事になりますから、体力のあり余っていらっしゃる方々の方がいいのです」
 人差し指を立て、言い含めるように凛が言ったとき、
「あら、わたくしのどこが体力莫迦なのですって?」
「碧さんなんかと一緒にしないでくださいよー」
 物陰から、二つの人影が現れた。
「みみ碧さんに琉奈さんっ? いったいいつから…?」
「なにを慌てていらっしゃるのか知りませんけど、安心なさいな。今来たばかりですわ」
「ご主人様がそろそろパーティーを始めようって」
 碧と琉奈の言葉を聞き、ほっと胸を撫で下ろす莉来。良かった、二人には見られていなかったようだ。
「わたくしが凛さんの手伝いをしますから、琉奈さんは莉来さんの着替えをお願いしますわね。莉来さんは今日の主役ですから、めいっぱい可愛らしく見せてあげてくださいな」
 てきぱきと指示を出し始める碧。さすがはメイド頭というべきか。
「じきにパーティーを始めますので、莉来さんのお父様はお庭の方にお戻りいただけますでしょうか」
「美しいお嬢さんの言葉には逆らえないからね、戻ることにするよ。それに、莉来と凛さんにはいいものを見せてもらったことだし」
「お父さんっ!」
 顔を真っ赤にして睨み付ける。恥ずかしさの為か、目尻にうっすらと光るものが浮かんでいるのがまた可愛らしい。
「おぉ、恐い恐い」
 おどけたように肩を竦める。どことなくご主人様に通ずるものもあり、この親では莉来も苦労することだろう。
 莉来と琉奈、莉来の父が立ち去ったことを確認すると、碧は腰に手を当てて呆れたような溜息をついた。
「まったく、どうしてあそこまでいい雰囲気になっておきながら、そこから先へ進むことができませんのかしら。詰めが甘いったらありませんわ」
「え…? 碧さん、まさか…?」
 ぎくりとした表情で見つめ返す凛に、くすりと悪戯っぽい笑みを浮かべて唇を寄せる碧。耳朶に息がかかるくらいの距離に急接近され、凛の顔がうっすらと朱に染まる。
 遠目にも碧はかなりの美人であるが、こうして近くで見るとその肌の白さや繊細さ、なめらかさなどがよく判る。凛の薄紫の瞳に、憧れとうらやましさが混ざったような色が浮かんだ。
「琉奈さんは本当に気付いていないから安心なさい。それから───」
 碧の甘やかな吐息が耳朶を打ち、凛の身体がびくりと震える。碧は薄く笑うと凛の頤の下に人差し指を差し入れ、くい、と僅かに上を向かせる。
「わたくしが教えてさしあげてもよろしくてよ」
「み、碧さん…だめです…」
 横を向いて俯いてしまう凛。胸の前で組み合わされた両手がもじもじと恥ずかしそうに動いている。
「そうですわね。今はそのような場合ではありませんでしたわ。───さ、早く運びましょう。もうできていらっしゃるのでしょう?」
「は、はい。ほとんどのものは」
 まだ少しドキドキする胸を押さえ、凛は厨房の扉を開いた。

 庭に並べられたテーブルに次々と料理が並べられてゆく。結局はれつ子にも手伝ってもらうことになったが、おかげでスムーズにパーティーを始められそうだ。
「ほう、随分と頑張ったじゃないか、凛」
 凛のご主人様が、並べられた料理を見て感心したような声をあげる。
「莉来さんの為ですもの、手を抜く訳にはまいりません。───そう言えばご主人様、莉来さんの誕生日祝いにいらしたのですよね?」
 頤に指を当てて小頸を傾げながら主に問う。
「判りきったことを訊いてどうする」
「いえ、私の時にはご主人様は祝ってくださらなかったような気がいたしまして……私の気のせいでしょうか?」
 凛の問いに訝しげな顔をしていた主が納得して破顔する。
「気のせいなんかじゃないから安心しろ」
「わ、どうしてそんなひどいことをにこやかにおっしゃられるのですか? …くすん、もっと優しいご主人様にお仕えしたいです」
 拗ねたように自分の主を見る。その時、琉奈に伴われた莉来が庭に現れた。
「ほぅ・・・」「わぁ・・・」
 あちこちから賛嘆の声があがる。
 当の莉来はと言えば、屋敷の中から明るい庭に出て来たせいで一瞬眩しそうに目を細めたが、今の自分の格好を思い出して恥ずかしそうに後退る。
「る、琉奈っち、やっぱりこの格好は恥ずかしいよ」
「えー? 莉来ちゃんに似合うと思って用意したんですよ?」改めて莉来の頭の先から爪先までを眺め渡し、満足そうに頷く。「うん、ばっちり」
 琉奈とれつ子からのプレゼントと言って渡された服は、ふりふりひらひらとした実に可愛らしいものであった。琉奈の趣味が大いに反映されているであろうことは疑うべくもない。
「ゴスロリの方が良かった?」
「そ、それもちょっと・・・」
 確かに黒と白を基調としたゴシックロリータの方がまだ落ち着いた感じではあるかも知れないが、しかしデカダンを前面に出したゴシックロリータはやはり、頽廃嗜好の無い莉来の趣味に合うものではない。それくらいならばまだこちらの方がマシと言うものだ。
「・・・琉奈っち」
「なに?」
 覗き込んで来る琉奈の視線から逃げるように横を向き、俯いてしまう。
「・・・ありがとう」
 それだけを言うと、足早に歩きだす。後に残された琉奈は少しだけ驚いたように立ち尽くしていたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。
「どういたしまして」
 その言葉が莉来に届いたかどうかは判らないが、琉奈にはそんなことはどうでも良かった。ただ、莉来の言葉が嬉しかった。琉奈にしても、あの服は莉来の好みから外れているのではないかとは思っていたのだが、それでも莉来が受け入れてくれたことはなによりも嬉しかった。なんとなく、凛が莉来にぞっこんになっている理由が少しだけ判ったような気がした。
「おめでとう!」
「おめでとう、莉来ちゃん!」
「ハッピー・バースデー!」
 次々と祝いの言葉がかけられる。クラッカーが小気味良い音を立てて弾け、色取々の紙吹雪を舞い散らせる。
「う…えっと…みんな、ありがとう」
 ちょっぴり不機嫌そうな表情でぺこりとお辞儀をする。しかしそれが彼女一流の照れ隠しであることはみなが判っていた為に気まずさは無く、寧ろ微笑ましいとさえ言えただろう。
「誕生日おめでとう、莉来」
「おめでとう、莉来ちゃん。みなさんに愛されているようで、お母さん安心したわ」
「お父さん、お母さん…」
 我知らず、大きな瞳が潤みだす。しっかりしているとは言え、やはりまだ子供なのである。正月以来、半年近く離れていた両親に会って恋しさがこみ上げて来たのであろう。
「あらあら、莉来ちゃんったら」くすくすと笑いながら莉来の頭を優しく撫でる。「今日はおめでたい日なのだから、涙はだめよ」
 レースの付いたハンカチを取りだし、莉来の目尻のあたりをそっと拭う。
「お母さん…」
 きゅ、と母を抱きしめる。が、しかし、今の状況を思い出して素早く離れ、きょろきょろと周りを見回す。ギャラリー一同の暖かい笑顔が、今の莉来には妙に生温く感じられた。
「あらあら、莉来ちゃん、もういいの? お母さん淋しいわ」
 右手のひらを頬にあて、左手を右肘に添えながら小頸を二十度程傾ける。そのなごやかな表情からは淋しがっているのかどうかは読み取り難いが、眉が僅かにハの字になっているのがそれらしいと言えばそうであろうか。
「お父さんはもっと淋しいぞーっ」
 涙を滂沱と流しながら莉来を抱きしめる父。ばたばたと莉来が暴れていることなどお構いなしにすりすりと頬擦りをする。
「お、お父さん…苦し…」
「あらあら、楽しそう。じゃあお母さんも…すりすり♪」
「わきゃー」
 両側から頬擦りされ、身悶えする莉来。一見微笑ましい光景ではあるが、当の莉来には堪ったものではなかった。
「そろそろ、よろしいですかしらね」
 ぱんぱん、と手を叩き、注目を自らに集める碧。それによってダブル頬擦りも止まり、莉来は安堵の息を洩らした。
「凛さん、れつ子さん、ケーキを運んで来てくださいな」
「「はい」」
 小走りに、しかし見苦しくない程度の早さで厨房に向かう凛とれつ子。ほどなく特大のワゴンを押して戻って来る。
「ふわ…」
 ワゴンの上のそれに、驚嘆の声があがる。
 ワゴンの上に載せられたケーキは、大きかった。直径は四十インチ程もあり、厚さは六インチにもなろうか。だが驚くべきはその大きさではなく、その造形にあった。苺を挟み、生クリームをふんだんに塗られたスポンジケーキの上にはレープクーヘンで作られたお屋敷が鎮座しており、その前にクッキーの石畳が敷かれている。お屋敷の周りにはワッフルの壁が立ち並び、それに沿ってキゥイやメロン、苺などが鮮やかなコントラストを演出していた。そしてチョコレートで作られた九つの人形───莉来を中心にしてご主人様、碧、琉奈、凛、れつ子、ビザプロ、莉来の父と母───が可愛らしく配置されている。それを見た凛の主が隅の方でさめざめと泣いていたが、気に留める者はいなかった。
「よくこんなもの作ったなぁ…」
 半ば感心し、半ば呆れたように見つめるご主人様。
「さすがにお菓子関係はお手の物ですね」
 琉奈とて料理全般において一方ならぬ自信を持っているが、これほど気合の入った物を作れるかと言われれば口籠らざるをえないだろう。
「ご主人様の為でしたら、わたくしだって作ってごらんにいれますわよ」
 そう言いながら、さりげなくご主人様に寄り添う碧。琉奈が険悪な視線を飛ばしたりするが、気にした様子もない。
「凛お姉ちゃん・・・」
「はいっ、頑張りましたっ」
 ぱん、と両手を合わせ、にこにこと笑う凛。褒めて褒めてオーラ全開である。
 これだけのものを作るとなれば、一体どれほどの時間を費やしたのだろうか。あまり料理の得意でない莉来には想像もつかなかったが、しかし簡単にできるものではないと言うことだけは理解できていた。
「貴女が凛さん? 初めまして、莉来の母です」
 のほほーん、とした口調で話しかける莉来の母。穏やかな表情はそのままだが、見透かすような鋭さで凛の頭の先から爪先までを眺め渡す。
「あ、はははははいっ、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんっ、川澄凛と申しますっ。初めまして、莉来さんのお母様っ」
 背筋をぴっと伸ばし、四十五度の角度まで頭を下げる。
「あらあら、そんなに畏まらなくてもいいのよ。───うふふ、お母さん、この子気に入っちゃったわ。ねぇ、貴女、莉来ちゃんのお嫁さんにならない?」
 そのあまりにも何気ない口調に、一瞬、誰もがその言葉の意味を理解しえなかった。
「え? …えええええ───?」
「お、お母さん、なに言ってるの!?」
 顔を真っ赤に染めて狼狽する二人をよそに、「あぁ、それはいい考えだね、ハニー」などとお気楽な父。
「お、女同士で結婚なんてできる訳ないでしょ!?」
「あらあら、オランダやベルギー、デンマーク、ノルウェー…そうね、あとはフランスでもできるわよ。それとも莉来ちゃんは凛さんのこと、嫌い?」
 にこにこと、あくまでも穏やかな表情は崩さない。この笑顔が曲者だった。
「…嫌いじゃ、ないけど」視線を逸らし、言い淀む。「で、でも、それとこれとは別のことじゃ…」
「凛さんは、どう? 莉来ちゃんのお嫁さんになるの、いや?」
 標的を凛に変えるが、当の凛は未だぽーっとしたままで、アッチの世界に行ってしまっているらしい。
「凛さん?」
「…あ、は、はいっ。私などが莉来さんのお嫁さんに…そんな嬉しいこと…きゃあん♪」
 両の手で頬を挟み、いやんいやんと身を捩る。
「凛さんに異論はないみたいだけど、でも、莉来ちゃんが嫌がってるのよねぇ」
 はぁ、とわざとらしく溜息をつく。
「えぇっ? 莉来さんは私などではお嫌なのですか?」
「だーかーらー、そうじゃないんだってばー。凛お姉ちゃんのことは好きだけど、だからって結婚には結びつかないでしょ?」
 凛が瞳を潤ませながら莉来を見ているが、寧ろ莉来の方が泣きたいような気分だった。
「判りました。莉来さんが私のことを好きだと言ってくださるのなら、私はそれだけで満足です」
「おや、本当にいいのかい?」
「私、本当はとても欲張りなんですよ。だから、多くを望んではいけないのです」
 少し困ったような笑みを浮かべ、ぺろりと舌を出す。
「あらあら、お母さんもっとこの子のことを好きになってしまいそう」
 凛を抱きしめ、頬擦りをする。
「あ、お母様…」
「あらあら、お母様ですって。ふふっ、もっと呼んでくださいな〜♪」
「もうっ、いい加減にしてよ! 凛お姉ちゃんもなんで抵抗しないの!?」
 不愉快そうに、凛を睨み付ける。母親が凛にべたべたするのが嫌なのか、凛が嫌がらずにいるのが嫌なのか、よくは判らなかったが、とりあえず怒りの矛先は凛に向けられたようだ。
「はいはい、そこまでですわ。パーティーを続けましょう」
 ぱんぱん、と手を叩いて場を仕切る碧。凛はほっとして碧に謝意のこもった目を向けた。莉来も怒りの矛先を逸らされたせいで白けたのか、静かになる。
「では改めて…莉来、誕生日おめでとう!」
 ご主人様が高々とグラスを差し上げた。

「凛お姉ちゃん、入ってもいい?」
 凛に貸し与えられている部屋のドアがノックされ、その向こうから莉来の声が聞こえて来る。
 既にパーティーも終り、莉来の両親は再び海外に旅立って行った。その際にご主人様以下、その場に居合わせた全員に莉来のことをよろしく頼むと頭を下げて行ったが、特に凛に対して慇懃であった。
「莉来さん、どうなさったのですか?」
 ドアを開け、莉来を迎え入れる。凛は風呂上りであるらしく、濡れた髪が肩の辺りまで届いている。シルクのネグリジェは身体のラインを透かして見せており、莉来は見慣れた筈なのにドキリとしていた。
「すぐ、お茶を淹れますね。ダージリンのシルバーティップスが手に入ったのですが、いかがですか? ファーストフラッシュなので味は薄めですけど、爽やかで香りの良いお茶ですよ」
「ん、いい。すぐに帰るから、気を遣わないで」
「そう…ですか。残念です」
 莉来と一緒にベッドに腰をかける。なぜかもそもそとする二人。
「あの…莉来さん? どんな御用なのでしょう?」
「あ…うん、今日のお礼を言おうと思って…。凛お姉ちゃん、ありがとう」
 ぺこり、と頭を下げる。
「え? あ、いえ、お礼を言われるようなことなど私はなにも…寧ろ、私の提案を聞き入れてくださった旦那様にこそお礼を言われるべきかと思いますが」
「ご主人様には、もうお礼を言って来たよ。琉奈っちにも碧っちにも、れつ子お姉ちゃんにも言ってあるけど、凛お姉ちゃんだけは、特別だから…ねぇ、あたしが凛お姉ちゃんにしてあげられることって、なにかあるかな?」
「莉来さん…」
 凛は莉来の小さな手を握り、そっと頬を寄せた。
「そのお気持ちだけで、私には充分です」
「でも…!」
 どうしても謝意を示したいのか、莉来に引く気はないようであった。
「では…そうですね、膝枕をしていただけませんか?」
「ひざ…まくら? そんなことでいいの?」
 きょとんとする莉来。
「はい、実は以前から一度でいいから莉来さんの膝で寝てみたかったのです。…だめですか?」
「そんなことならお安い御用だけど…」
 莉来の言葉に満面に笑みを湛える凛。
「それでは、失礼しますね」
 ころん、と横になり、莉来の膝に頭を乗せる。
「あぁ、莉来さんに膝枕をしてもらえるなんて…し・あ・わ・せ」
「いいけど…ヘンなことはしないでね」
「ヘンなこと…? 例えば、こんなことですか?」
 さわさわと凛の手が莉来の腿に触れる。途端、ごつんと音がして莉来の拳が凛の頭に落ちる。
「い、痛いです莉来さん」
 涙目になって凛が抗議するが、莉来の冷ややかな視線を受けて沈黙する。
「まったく、もう」
「はい、ごめんなさい。おとなしく膝枕されて…ま…すぅ〜」
 終りの頃には寝息に変わっていた。そう言えば昨夜は一睡もしていないと言っていた。今になって疲れが押し寄せて来たのであろう。
 凛の寝顔はあどけなく、まるで子供のようだと莉来は思った。
「凛お姉ちゃん・・・」
 そこから先の言葉は莉来の口の中で消えた。
 凛のあたたかな体温を感じながら、莉来は心に穏やかさを覚えていた。

Fin



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