とつっ、とつっ、と雨が窓を叩く。 厚く覆われた乱層雲で空はどんよりと曇り、幾筋もの白い糸のように雨を降らせている。 青葉は雨に打たれて頭を垂らし、庭の彫像は天を睨んで涙を流しているようであった。 窓の外では轟くほどの音を立てているのであろうが、硝子を一枚隔てただけで遠い世界のように思われてしまう。 琉奈は黒く塗り潰された世界に蹲り、寒さを堪えるかのように自らの身体を抱きしめた。琉奈の心の中にまで雨雲が広がり、急速に暗さを増してゆく。 「ご主人様・・・どうして・・・」 琉奈は今し方見た光景を反芻し、答えを返す筈のない相手に問いかける。 「どうして・・・?」 どうして、ご主人様と凛がキスをしていたのだろう。それも、かなり馴れた感じだった。まるで仲の良い恋人の逢瀬を見ているようで、琉奈は心を締め付けられる思いであった。 「凛ちゃんは莉来ちゃんのことが好きだったんじゃなかったの?」 それとも男女の愛とは別ということなのか。 莉来がそのことを知ったらどう思うだろう。いつも通りに「そう」とでも言ってさらりと流すのであろうか。いや、そうは思えない。ここ数日のあの二人は明らかに以前よりも親密度を増している。莉来が凛のことを気にかけているのは間違いない。あまり人に心を開かない莉来が凛に対して心を開きかけているのだ。もしも莉来を裏切っているのなら、それは許されることではない。 「ご主人様もひどいですよ・・・」 琉奈がこの屋敷で奉公するようになって一年以上が過ぎている。その間、たしかにセクハラまがいのことは何度もされてきたが、しかし、凛に対するそれとは明らかに意味合いが違う。もっとセクシュアルで、艶っぽいものがご主人様と凛の間に感じられる。 「どうして・・・?」 琉奈の心は千々に乱れ、行き場の無い怒りを持て余す。思考は迷宮に囚われ、堂々巡りに嵌まり込む。 ざー、と遠くから雨音が聞こえてくる。この雨はどこに降っているのだろう。心の中の雨雲はその雨脚を早め、一秒ごとに琉奈の心を暗く沈ませてゆく。 「ご主人様の・・・ばか」 ご主人様の胸にそっと手を当て、身体を引き離す。唾液が糸を引き、二人の唇を繋ぐ。 「・・・はふ・・・」 凛の朱唇から色っぽい息が洩れる。指のひらで蔓を押さえ、ずれた眼鏡を元の位置に戻す。 「もう、旦那様ったら・・・」 口をもごもごさせて凛から奪った飴を舐めるご主人様に、凛は苦笑を禁じえない。いくつかの飴の入った袋には赤や白、黄色などの色とりどりの飴が残っているが、たまたま一つしかなかった青い飴を凛が舐めてしまったからと言って、それを口移しで奪おうなどとは子供じみているとしか言いようが無い。 「旦那様、私から奪われた飴は美味しいですか?」 ちょっぴり皮肉を込めてみる。 「ん、あぁ、凛ちゃんの味がするかな。とても美味しいよ」 その言葉に凛は頬を朱く染め、ぽかぽかとご主人様の胸板を叩く。 「旦那様、そんな恥ずかしいことを臆面も無くおっしゃらないでください」 「はっはっは、痛くないなぁ」 踏ん反り返り、凛に叩かれるままにする。 「うー」 上目遣いに睨み付ける凛の頭をくしゃくしゃっと撫で、 「はははっ、ごめんごめん」 笑いながら謝られたところで誠意が感じられない。 「もう、いいですっ」 ぷいっとそっぽを向き、すたすたと歩き始める。本気で怒っているわけではないのだが、気恥ずかしさを誤魔化すためについ怒っているような素振りを見せてしまう。 「おーい、凛ちゃーん」 「・・・・・・」 「凛ちゃんってばー」 「知・り・ま・せ・ん」 くるっと振り返り、べーっと舌を出す。 「あらら・・・」 頭に手を当て、ばつが悪そうに笑う。 「いや、さっきメールが入ってね、凛ちゃんのご主人様、今夜こっちに着くそうだよ」 「本当ですかっ!?」 ととと、と駆け寄って来る。 「うん、凛ちゃんの転入手続きの為に来るって書いてあった」 顔を輝かせる凛を見て、ちょっとだけ嫉妬を覚える。本来、凛は他家のメイドなのだから自分よりも本当のご主人様を慕っていて当然なのだが、しかし感情というものは理屈だけで割り切れるものではないのだから、こればかりはどうしようもない。 「凛ちゃんはご主人様が好きなんだね」 「いいえ?」 きょとん、とした顔で応える。その素っ気無さに思わずずっこけそうになる。 「転入手続きと言うことは、こちらに腰を落ち着けるということになると思われますから、それならずっと莉来さんの近くにいられるじゃありませんか」 胸の前で手を組み合わせ、幸せそうに笑う。そのあまりにも無垢な笑顔を見ていると、凛のご主人様に心から同情したくなるのだった。 夕方になる頃には雨はすっかり上がり、広漠たる空を綺麗な茜色に染め上げていた。 庭の草木についた水滴が夕陽を反射させて物悲しい光を放てば、家路へと急ぐ鳥たちがその翼を羽搏かせて夕陽へと飛んでゆく。 琉奈は窓を開け、湿ってはいるが気持ちの良い風を部屋の中に迎え入れる。雨雲は既になく、どこまでも晴れわたっている。しかし、琉奈の心に湧き上がった雨雲は依然として雨を降らせたままであり、いつになったら晴れ間が見えるものか見当もつかない。 「はぁ・・・」 何度目になるかも判らない溜息が風に乗って流れてゆく。琉奈は窓を閉め、僅かに乱れた髪を撫で付けた。 こんこん、とドアがノックされた。 「琉奈さん? いらっしゃいますか?」 控え目な声がかけられる。こんな声を出すのは一人しかいない。 「凛ちゃん?」 めらっ、と嫉妬の炎が点る。つかつかとドアに歩み寄り、ノブを引く。少し乱暴になってしまったのは御愛嬌だろう。 「なんですか?」 不機嫌そうな琉奈に面喰らい、一瞬言葉に詰まる。が、すぐにいつものように穏やかな───と言うよりのほほんとした笑顔を向ける。 「旦那様よりの言伝で、今日の夕食はいつもより多めにお作りするように、と───って、琉奈さん?」 琉奈の視線は凛の形の良い朱唇に注がれていた。この唇が、ご主人様と、キスを───。 琉奈の唇が凛のそれに近付いてゆく。 「琉奈さんっ、なにをなさるのですかっ!?」 唇の触れる寸前に琉奈を突き飛ばし、素早く下がる。 「見ちゃったのよ。凛ちゃん、貴女がご主人様とキスしてるの・・・」 恨みがましい目で凛を睨め付ける。当の凛はと言えば、頤に指を当てて小頸を傾げている。 「うーん・・・あ、もしかして、さっきの飴のことでしょうか?」 ぱん、と得心が行ったかのように両手を打ち合わせる。 「青い飴が欲しかったから人が舐めているのを奪うだなんて、旦那様って意外とジャイアニズム論者なのでしょうか?」 「・・・え?」 論旨がずれているような気がしてならない。そもそも、凛はいったいなにを言っているのだろうか? 「あの・・・凛ちゃん? なにを言っているのか判らないのだけど・・・」 「え? ですから旦那様が、私の舐めていた飴をむりやり奪って行った、ということですけれど?」 頤に指を当てて小頸を傾げ、不思議そうに琉奈を見つめる。 「でも、ご主人様とキスしていたのよね!?」 なんとなく誤魔化されているような気がして、語気も荒く詰め寄せる。 「キス・・・あ、そうですね、そうなるのですね」 今更ながらそのことに気付き、顔を朱らめる。両手で頬を挟んで身を捩る様を見ていると、琉奈は怒っていた自分が莫迦らしく思えて来た。 「えっと・・・じゃあ、どうぞ」 目を閉じ、顔を琉奈の方に突き出す。 「・・・なんのつもり?」 「え? 旦那様と間接キスがしたいから私を襲ったのではないのですか?」 あながち間違いではないのかも知れないが、やはり根本的なところでなにかが違っているような気がした。 「凛お姉ちゃんに琉奈っち、なにしてるの?」 いきなり横から声をかけられ、琉奈が飛び退く。凛はその存在に気がついていたようで、にこやかに莉来に振り返る。 「はい、琉奈さんが私とキスをしたいと言われましたので、わくわくしながら待っていたところです」 わくわくするな───と言うか、それ以前にそんなこと一言も言っていない。 「ちなみに私は莉来さんとキスをしたいです」 きゃっ、と身をくねらせながらハートマークを飛ばすが、 「却下」 些かの迷いも無く即断する。凛の薄紫の瞳が潤み、泣きそうな表情になる。 「そんな即答しなくても・・・くすん」 そんな凛を完璧に無視し、琉奈に向き直る。 「で、本当に凛お姉ちゃんとキスしたいの?」 言葉そのものは素っ気無いが、言外に得も言われぬ威圧感がこもっている。注意して見れば、莉来のこめかみの辺りが微かに震えているようだった。 「ちちち、違いますよ。わたしはご主人様と───」 そこまで言いかけ、俯いてしまう。動揺する琉奈を冷ややかに見つめ、 「なら、してくればいいじゃない。碧っちみたいに」 「なんですとーっ!?」 わなわなと全身が震え出す。 「ま、まさか莉来ちゃんも・・・?」 きっ、と鋭い視線で莉来を睨め付ける。 「別にしたくない」 これまたあっさりと言い切る。 「そ、そう。しかし碧さんに先を越されるとは・・・油断も隙もあったものじゃないですね」 自分はれつ子とさんざんしておきながら、無茶を言う。 「くうぅ〜、負けませんよ〜っ」 どたたたた、とソニックブームを巻き起こして走り去る。後にはただ、呆然と取り残される二人の姿があった。 「ご主人様っ!」 キュキキキキキィィ───ッとブレーキをかけ、テラスを通り過ぎる前にターン。靴の先から立ち昇る煙が、如何に高速であったかを物語る。 ご主人様はテラスでお茶を楽しんでいたようだ。その傍らにはすらりとした長身の女性が寄り添うように立っている。言わずと知れたメイド頭の碧である。 「なんですの、騒がしいですわね。靴の底まで貴女の胸と同じように摩り減らさなくてもよろしいでしょう?」 「なんてことを言うんですかーっ!」 激昂。 「まぁまぁ、二人とも。せっかく綺麗な夕陽なんだから、諍いはやめてくれないかな」 ずずっと紅茶を一口啜る。 「ん? ちょっと待てよ。なんで琉奈がここにいるんだ? 確か夕食の支度をするように凛ちゃんに伝言を頼んでおいた筈だぞ。会わなかったのか?」 怪訝そうに琉奈を見つめる。 「え? あ、いえ、会いましたし、夕食のことも聞いたような気はします」 「なら早く持ち場にお戻りなさい。仕事の途中なのでしょう? 今夜はお客様がお見えになられるのですから、粗相などしてご主人様に恥をかかせないでくださいね」 さすがにメイド頭らしい貫禄のある正論に、琉奈は反論する言葉もない。言いたいことはあるのだが、あまりにも個人的なことにすぎてそれ以上言葉を繋ぐことができない。 「う・・・はい、判りました」 ぐっと飲み込み、今は我慢する。 「琉奈、なにか用事があったんじゃないのか?」 沈痛な面持ちの琉奈に常ならぬものを感じ、心配になる。 「いえ、今はいいんです。───すぐ、仕事に戻りますね」 ご主人様の唇に集中しそうになる意識を振り払い、むりやり笑顔を作る。 「…ご主人様」すっ、と碧が進み出る。「今の琉奈さんは心ここに在らずと言った感じで、お客様のお食事を任せるのには不安がありますわ。こんなことではいつご主人様に恥をかかせるか知れたものではありません」 「なっ───!」 ぎゅっと目尻を吊り上げ、碧を睨み付ける。確かに碧の言う通りなのかも知れないが、しかし、もう少し言い方というものがあるだろう。 「ですから、わたくしがお食事の準備を致しますわ。ここは琉奈さんにお任せしてもよろしいでしょうか?」 琉奈の刺すような視線に気付きながらも、知らぬ体で提案する。こういう厭味を言いながらもさりげない気配りができるのが碧の美点だな、と苦笑するご主人様。 「そうだな。じゃあ碧、そちらの方は凛ちゃんと相談してうまくやってくれ」 「判りましたわ。お任せくださいませ」 一礼して、下がる。 「琉奈、こっちにおいで。お茶を淹れてくれないか」 カップを軽く上げ、琉奈を促す。 「まったく、ご主人様に心配をおかけするなどメイド失格ですわよ。いいですこと、見逃すのは今回だけですからね」 琉奈とすれ違いざま、口早にそれだけを言って、あとは歩みを緩めることさえせずに去ってゆく。 「碧さん…」 やられたな、と思う。どうしてあの人はいつもこちらの心を読んだかのような行動をするのだろう。碧の前では隠し事などできないのではないだろうか。 「琉奈?」 「あ、はい。ただいま参ります」 ととと、と小走りに歩み寄る。 テーブルの上には碧お自慢のスコーンとクロテッドクリームがのせられたプレートと、内側を湯気で曇らせたガラス製のティーポットが行儀良く置かれている。ポットの中には透明な赤茶色の液体が入っており、それは夕焼けを受けてさらに赤みを増して見えた。 琉奈はカップに紅茶を注ぐと、そっとご主人様の脇に下がった。長く伸びた二人の影が音もなく寄り添いあう。 「琉奈?」 「は、はいっ!?」 ぴんと背筋を伸ばし、直立した姿勢で鯱張る。 「どうした? いつもの元気な琉奈らしくないぞ」 「そ、そうですか? あはは、元気。はい、元気ですよ? ほらほら」 ガッツポーズをとり、元気さをアピールする。ご主人様はふぅ、と嘆息し、身体ごと琉奈に向き直る。 「僕は元気な琉奈が好きだよ。でも、今は無理をしているように見える。もしそれが僕のせいなのだとしたら、僕はどうすればいい?」 めずらしく真摯な表情のご主人様に琉奈はどぎまぎしてしまう。 「ご、ご主人様のせいなんかじゃ・・・」 ご主人様にみつめられているだけで、琉奈の胸はどきどきと鼓動を早め、頭に血がのぼっていくのが自覚できる。 確かに原因はご主人様にあるとも言えるのだが、しかし自分が勝手に焼き餅を焼いているだけであり、それをご主人様にぶつけるのは筋違いであるような気もするし、なにより恥ずかしくて口に出せない。先程までの勢いがあればその余勢を駆ってご主人様を問い詰めることもできたかも知れないが、しかし碧によって矛先をずらされてしまった今、琉奈にご主人様を問い詰める勇気は湧いて来なかった。 「まぁ待て、琉奈。お茶でも飲んで少し落ち着くんだ」 すい、とソーサーにのせられたティーカップを滑らせる。 「あ、はい。すみません、いただきます」 確かに頭はぼうっとして、喉はカラカラだ。琉奈は白磁のカップにやわらかな唇をつけ、こくこくと紅茶を飲み干してゆく。少し置かれていたせいか、飲みやすい温度になっていた。 「落ち着いたか?」 「あ、はい。おかげさまで落ち着きました」 確かに落ち着いた。しかし、落ち着いたことで、あることに気が付いてしまった。 「このカップ…ご主人様の…」 確かに先程までご主人様が口をつけていたカップに間違い無い。と、言うことは───。 「かっ、かかかかか───」 先程とは比べ物にならない程頭がくらくらし、心臓がばくばくと音を立てて鼓動を打つ。 「る、琉奈!? どうしたんだ一体!?」 いきなり怪しい声をあげる琉奈に一瞬、腰が引ける。まさか、碧が一服盛ったのか───!? 「か、間接…」 顔を真っ赤に染め、ようやくそれだけを絞り出す。 「関節…腕ひしぎ逆十字?」 「違いますーっ!」 小橋ばりのラリアットがご主人様に炸裂する。恥ずかしさも手伝って破壊力は三十パーセント増しだ。 「あべしっ!」 微妙に嫌な悲鳴をあげてご主人様が吹き飛んでゆく。 「あっ、ご主人様っ!」 「琉奈はご主人様の上に素早く飛び乗ると─── 殴った。 殴った。 殴った。 ご主人様が血反吐を吐き、泣いて懇願するまで─── 殴った。 みちり、と琉奈の拳の下で肉がひしゃげる音がした」 「殴ってません! 誰ですか、夢枕獏みたいなナレーションを入れるのは!?」 ご主人様を助け起こしながら琉奈が振り返る。 「琉奈っち、まだるっこしい」 腕を組み、呆れたように言うのは莉来であった。いや、莉来だけではない。碧と凛、そしてれつ子までが物陰から伺うように覗いていたのだった。 「な、な、な…」 わなわなと震える。全て見られていたのだろうか? 「なんでみんないるんですかーっ!?」 恥ずかしさの余りに、これ以上はないというくらいに顔を真っ赤にして叫ぶ。 「琉奈さんに抜け駆けされてはたまりませんわ」 「琉奈さんの恋する乙女心…素敵です(ぽっ)」 「……お姉ちゃん…くすんくすん」 それぞれがそれぞれの感想を勝手に洩らす。 「あぁぁぁぁぁぁぁぁ」 頭を抱え、身を捩る琉奈。ご主人様はと言えば、ぴくぴくと痙攣を繰り返して愉快とも不気味ともつかぬパフォーマンスを見せている。───いや、パフォーマンスではないのかも知れないが。妙に赤いものが流れているように見えるのもきっと夕陽のせいだろう。 「み…」琉奈の拳がぎゅっと握られる。「みんな大嫌いですーっ!」 琉奈の魂を揺さぶるような絶叫が虚しく茜空に響きわたる。その落ちつつある夕陽に向かってあほーあほーと鳴きながら烏が飛んでゆく。 明日は、きっといい天気になるだろう。 Fin |
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