たぶん平穏な日々 その3


 ダンッ、キュキュッ
 ダンダンダンダン、キュキュキュッ
 ダンッ、キュッ、キュキュッ、ダダダダダンッ
 ザッ───ぱさり
 クロスオーバーで揺さぶりをかけながら素早くカットイン。そしてゴールにボールを置いてくる。綺麗なレイアップシュートだ。
 ホイッスルが鳴り、ゲーム終了を知らせる。体育館の中に歓声がどよめき、普久子がギャラリーに向かって高々と拳を上げる。
「ほぇ〜ん、やるもんだねぇ、デカ女も」
 うんうん、と感心したように何度も頷く真紅。頷く度に頭の両側で束ねた髪が大きく揺れる。
「普久子さんはバスケ部のエースですから」
 周りの熱気にあてられたのか、れつ子も些か興奮しているようであった。
 今日は三月十五日。
 土曜日なので授業は午前のみ。そういうこともあってバスケ部の練習試合はギャラリーが多かった。
 中等部における普久子の人気はかなりのものがあり、ギャラリーの大半も彼女のファンであるとみて間違いない。容姿は端麗というほどではないがそこそこ綺麗と言ってよいレベルであり、成績は上の中、スポーツ万能、少々がさつではあるが面倒見もよく、姉御肌とあっては人気も集まるというものだろう。
「おっ、れつ子、来てくれたのか・・・なんで貴様までいる」
 普久子がれつ子に気付き笑顔で声をかけ・・・その顔が雷雲でも呼び出しそうな程に曇りだす。その先にいるのは───
「なんだー、やる気かー?」
 ファイティングポーズをとり威嚇する真紅。
「いぃ〜い度胸だ、地獄の釜に叩き落してくれるわ」
 五指を鉤爪状に折り曲げ、わきわきと動かす。漫画ならば二人の背後に雷光とともにハブとマングースの姿でも浮かび上がるところだろう。
「二人ともやめてくださーい」
 ぴたりと拳を引く二人。まわりからおぉーと賛嘆の声があがる。どうやら二人ともれつ子には弱いようだ。
「まったく、もう」
 腰に手を当て、頬を膨らませる。が、そんな怒ったふりをしてみてもまったく怖くはなかった。むしろ可愛らしいと言ってもいいだろう。いや、訂正。めちゃくちゃ可愛い。
「あう〜、怒っちゃいや〜ん」
 れつ子の首に腕を回しへばりつく真紅。
「くぉ〜るあぁ、れつ子から離れんかい、この変態がぁ」
 ぎりぎりと、普久子の鉄の爪が真紅の頭に食い込む。
「あうっ、あうっ、あうぅ〜」
 どことなく余裕があるように聞こえるのは気のせいだろうか。
 そんな三人をあるものは呆れたように、またあるものは憧憬をもって、そしてまたあるものは嫉妬のこもった目で眺めていた。
「大名さん、いつまでも遊んでないの。集合よ」
 業を煮やしたキャプテンが普久子の首根っこを掴んで引きずって行く。
「りょーかーい。んじゃ、れつ子、また後でなー」
 ず〜るず〜る。
「あのデカ女を片手で引きずって行くって・・・ほんとに人類?」
 あのキャプテンにだけは逆らわないようにしよう。そう心に誓う真紅だった。
「まぁ、うるさいやつも消えたことだし、デートしよっか」
「はい?」
 おもわず間抜けな声をあげてしまうれつ子。相変わらず真紅の思考パターンは解析不可能だ。
「土曜日! 天気良好! 愛し合う二人! これはもう絶好のシチュエーションでしょっ!」
 ぐぐっと拳を握り締めて力説する。説得力は皆無だが。
「はい、先生。質問」
 げんなりとした表情で挙手をする。
「はい、れつ子さん」
「愛し合う二人って、誰と誰ですか?」
 なぁんだ、と満面の笑みを浮かべる真紅。「もちろん、あたしとぉ、れ・つ・子。きゃんっ♪」
 しなを作り、れつ子の胸に「の」の字を書く。
 途端、真紅の側頭部にバスケットボールが炸裂する。あまりの超高速ゆえに大気との摩擦で炎を発している。
「にょわーっ」
 アニメだったら三回くらいはリピートされる程の見事な吹っ飛び方だった。犯人は───まぁ、言うまでもないだろう。
「はい、大名さん、ミーティング中によそ見しない」
 キャプテンに耳を引っ張られ、泣く泣く戻る普久子。
「真紅ちゃん、大丈夫!?」
 壁に突き刺さった真紅を引っ張り出す。ぱらぱらと破片が落ちるが、本人は怪我一つない。頑丈と言うより、ほとんど人間外のレベルだ。
「おにょれ〜、デカ女め〜」
 肩を怒らせ、ずんずんと普久子に近付く。が、その前でキャプテンの視線に捕えられる。
「ごめんなさい、まだミーティング中なのよ」
 やんわりとした口調だが、真紅はそれ以上一歩も進めなくなってしまっていた。本能がレッドアラートを発令している。マジでヤバイ、と。
「うィす」
 きりきりきり、と軋むような音をたてて回れ右。そのまま振り返らずにれつ子の所へ戻る。
「真紅ちゃん・・・?」
 がしっとれつ子の腕を掴み、そのまま引きずるように外に出る。
「し、真紅ちゃん、ちょっと・・・!?」
「んー、いいからいいから」
 笑顔を凍りつかせたまま体育館の外まで出る。
「はーっ、伝説のゴルゴンも斯くや、だね」
 漸く凍りついたままの表情を解凍し、安堵の笑みを浮かべる。
「そんなこと言ってると怒られますよー」
 苦笑しながらハンカチで真紅の顔についた汚れを拭き取る。
「あ、大丈夫大丈夫。それよりもれつ子のハンカチが汚れちゃうって」
 遠慮する真紅の手を思いがけないほどの強さで押さえるれつ子。どきり、として真紅の力が抜ける。
「女の子なんだから、綺麗にしていないと駄目ですっ」
 めっ、と叱りつける。が、やはり怖くない。むしろ微笑ましささえ覚えて真紅はれつ子になされるがままにすることにした。
「あぅ〜、くすぐったいよ〜」
「もう少し我慢して。───はい、いいですよ」
「うー、ありがと」
「どういたしまして」
 気がつけば、先程までバスケのギャラリーだった連中が、今度はこっちのギャラリーになっていた。
 何故かは知らないが、急に恥ずかしくなる。
「い、行きましょう、真紅ちゃん」
 真紅を引きずるようにして歩き出す。れつ子としては力が入れ易いから、というだけだったのかも知れないが、傍目には腕を組んで歩いているようにしか見えなかった。
「おぉっ、今日のれつ子は積極的。さてはあたしの愛が通じたかっ? にふふふふ〜♪」
 あくまでも能天気な真紅であった。

「ふんふんふ〜ん♪」
 鼻歌なんかを口ずさみながら窓を拭く。
「きゅきゅっきゅ〜っと♪」
 今にもくるくると踊り始めそうだ。
「…琉奈っち、不気味」
 莉来の冷たい視線にすら気付かぬ様子で、上機嫌のまま窓拭きを続ける琉奈。
昨日はよほどいいことがあったようだ。
「碧っちと凛お姉ちゃんは買い出しに出かけちゃってるし…」
 はぁ、と溜息をつく。アレと一緒に留守番だなんて、いったい何かの罰ゲームなのだろうか。
「るる〜ん、るるる〜ん♪」
 早く帰って来て。そう切に願う莉来であった。

「おぅっ、碧さんっ、捕れ立ての魚が入ってるよ! 碧さんみたいにピッチピチさぁっ」
「凛ちゃん、朝入荷したばかりの野菜だよ! 新鮮さが違うぜぇ!」
「碧さんっ」
「凛ちゃんっ」
「碧さんっ」
 商店街を歩く二人に引きも切らずに声がかけられる。ちょっとしたアイドルのような感じだ。
 現代日本においてメイドなどというものはそう縁のあるものではない。コスプレイベント会場にでも行けばいくらでもお目にかかることはできるが、本物のメイドともなれば話は別だ。文化財保護法の対象にしても良いくらいのものである。そして通称「お屋敷のご主人様」は男の浪漫を実践躬行し、且つそれに成功した男の中の男、すなわち「漢」としてこの辺りではちょっとした名士になっていた。
「いつものことながら、碧さんの人気は凄いですねぇ」
 いいかげん慣れて来たとは言うものの、初めて見たときは驚いたものだ。「お屋敷のメイドさん」の人気は相当に高く、風聞ではそれぞれのファンクラブまであるともまことしやかに伝えられている。
「凛さんも随分と馴染んでいらしたのでなくて?」
「はぁ。そうかもしれませんね」
 名を呼ばれるたびに笑顔で会釈をする凛。おかげで先程から首の運動に事欠くことがない。一方碧は、と言えば慣れたもので目礼だけで手早く挨拶をしていく。確かに無駄に体力を使わなくて済むし、なにより碧のもつクールな雰囲気によく似合うものであった。
「あら? 凛さん、ちょっとお待ちなさい」
「なんですか?」
 怪訝そうに見る凛の胸元に碧の手が伸びる。
「み、碧さん・・・?」
「動かないでくださいな」
 ぴっ、とリボンの歪みを正す。
「あ、なんだ、リボン・・・」
「そうですわよ」それがなにか? と問いかけ、「・・・あはん」
 含みのある笑みを浮かべ、流し目を送る。同性であってもドキリとするほど艶めかしい。
「凛さん、貴女いったいなにを考えましたの・・・?」
 凛の耳元にそっと唇を寄せて囁く。碧の吐息が耳朶を打ち、凛の身体をぞくりとしたものが走り抜ける。
「莉来さんから聞いていますわよ。貴女、時折ヘンなことをおっしゃられるそうじゃありませんの」
 ふぅっと凛の耳孔に息を吹きかける。
「あぁ・・・」
 びくり、と凛の身体が震える。
「凛さんって、本当はとてもえっちな子なんじゃありませんの?」
 いたぶるような碧の言葉に凛の薄紫の瞳が湿りを帯びる。対する碧の瞳には徒な光がある。
「わ、私、えっちな子なんかじゃ・・・」
「えっちな子なんかじゃ・・・? ありますの? ありませんの?」
 その先が、言えない。凛の顔は上気して朱に染まり、息も絶え絶えになっている。
「否定できませんのね・・・?」
 ふふ、と薄笑いを浮かべて凛の首筋から頬へかけてそっとなで上げる。それがとどめだった。
「あ、あぁ・・・私はえっちな・・・」
 ふと、莉来の顔が浮かんだ。
「えっちな子なんかじゃ、ありません」
 一度は堕ちかけた心を、つなぎとめる。
「あら、莉来さんに操を立てますのね。感心ですこと」
 くすくす、と嘲るように笑う。
「でも、どこまでもちますかしら?」
 碧の唇が、凛のそれに近づく。もはや吐息の触れ合う距離と言ってよい。
「あれ? 碧さんに凛さん? こんな所でなにしてるんですか?」
「「濡れ場」」
 ハモる。その声に先程までの艶っぽさは微塵もない。
 見れば、二人の周りには人だかりができていた。ぐるりと取り囲んで二人のやり取りをずっと見守っていたらしい。中には前かがみになっている者もちらほらと見て取れる。
「わたくしとしたことが・・・恥ずかしいですわ」
「つい、ノってしまいました・・・」
 赤面して、ちょっぴり自己嫌悪。ごめんなさい、莉来さん。ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、碧さんにときめいてしまいました。などと心の中で懺悔する。
「そういえば、誰かと思えばれつ子さんじゃありませんの」
 先程の声の主はれつ子であったようだ。れつ子の左腕には長い髪を頭の両側で束ねた少女が絡みつくようにへばりついていた。
「・・・なんか凄くヤな言われ方をしたような気がするー」
 地の文に文句を言わないでほしい。
「れつ子ちゃん、そちらの方は?」
 凛がれつ子の傍らの少女の紹介を促す。少女の顔が上がり、凛の胸の辺りで停止する。
「をぉ〜♪」
 歓喜。
「あ、あの・・・?」
 思わず胸を隠すように腕を交差させてしまう。
「あ、あはは〜。こ、こちらは同級生の真紅・パットさん」疲れたような声をあげ、真紅に向き直る。「真紅ちゃん、こちらの人たちは凛さんと碧さん。お屋敷のお姉さま方よ」
 凛の胸から名残惜しそうに碧に視線を向け、
「わんだほー!」
 絶叫。
「れつ子さん、この方はいったい・・・?」
 さすがに困惑を隠せない。
「えぇと、そのぅ・・・」
「見た通りの方のようですね」
 返答に困るれつ子を見かね、フォローを入れる。フォローになっているかどうかは別のこととして。
「はふぅぅ〜、れつ子級が三人も〜。ぱらいそだよぉ〜♪」
 陶然とした表情を浮かべて身悶えするさまは相当に不気味だった。
「と、ところでれつ子さんはお買い物かなにかかしら?」
 とりあえず、話を変えようという意図が見え見えではあったが、誰も異を唱えることはしなかった。
「え、えぇ。明日は琉奈お姉ちゃんとデートなので、お洋服を買おうかと思いまして」
 最愛の人との逢瀬ともなればおめかししたくなるのは乙女として当然であったろう。凛も莉来とのデートを想像し───しょぼんと肩を落とす。莉来がわざわざデートなんてしてくれる訳がないと想到したからだ。
「琉奈さんのハイテンションの理由はそれでしたのね」
 浮かれまくっていた琉奈を思い出し、合点がゆく。数日前まではれつ子との関係に悩んでいたというのに、まったくおめでたい限りだと嘆息する。
「あの、碧さんたちは、なにを?」
 まさかこんな往来で漫才をするために来たわけではあるまい。あるまいとは思うのだが…なぜかそこで考え込んでいる碧と凛を見ていると一抹の不安が頭をよぎる。
「…そうでしたわね。買い出しに来ていたのでしたわ」
 忘れていたらしい。
「てっきり凛さんとデートをしているものと勘違いしていましたわ」
「私もそんな気になっていました。びっくりです」
 だめな人ふたり、みーつけた。心の中でつぶやくれつ子であった。
 その後は四人でショッピングしたりお茶したりと、もしも莉来が知ったら激怒するのは確実であっただろう。なお、約一名ほどトリップし続けていたと追記しておこう。

「遅い」
 第一声がそれであった。
 不機嫌そのものといった感のある莉来に、碧と凛は思わず一歩を退いていた。静かに燃え上がる怒りのオーラが見えたような気がしたのだ。察するに、未だ琉奈のテンションは高いままなのだろう。
「どこ、行ってたの」
 小柄な筈の莉来が大きく見える。気圧されるとはこういうことか。凛などは既に小声で「ごめんなさい」を連発している。
「買い出しですわ」
 嘘は言っていない。ただ、正確ではないというだけのことだ。
「時間がかかったのは吟味して選んでいたからですわ」
 れつ子の服を、だが。主語が抜けているだけで、これも嘘ではない。
「ふぅん?」
 ちらり、と凛に視線を向ける。
「そ、それではわたくしはこれで」
 防御力の低いところを攻める心算と見抜き、早々に退却する碧。後には見捨てられた体の凛が残されるだけだった。
「見捨てられてしまいました・・・くすん」
 碧の後姿を見送り、独り言ちる。
「凛お姉ちゃん?」
 高所から見下ろすような莉来の声にびくりと硬直する。
「うぅ、言うこと聞きますから鞭打ちや蝋燭は勘弁してください」
 プライドの欠片もない言葉に莉来の口から嘆息がもれる。
「しないよ、そんなこと」
「緊縛とか三角木馬もしません?」
「だから、なんでわざわざ凛お姉ちゃんを喜ばせるようなことをしなくちゃならないの」
「いえ、喜ぶだなんてそんなことはありませんけど・・・本当にしません?」
 なぜか残念そうに念を押す凛。
「し・ま・せ・ん」
「そうですか・・・」
 がっくりと項垂れる。どこまでが本気でどこからが冗談なのか、凛の表情からは判別できなかった。もしかしたら九割方は本気だったのかもしれない。
「それで誤魔化せるなんて、思ってないよね?」
 さすがは莉来というべきか。凛の思惑をほぼ看破していた。
「・・・はい、ごめんなさい。れつ子さんたちとお茶を飲んでいました」
 観念して素直に白状する。というより、最初から勝負にならないことは判り切っていたのだ。
「凛お姉ちゃんはここの使用人じゃないんだから、それを非難する気はないよ。───碧っちは別だけどね」
 確かに。まがりなりにも碧はこの屋敷のメイド頭である。職務怠慢を叱責されても文句は言えまい。
「いえ、その、碧さんを誘ったのは私ですから・・・ごめんなさい」
 深々と頭を下げる凛。
「なんであたしが怒ってるか、判ってる?」
「仕事ほったらかしで碧さんやれつ子ちゃんたちと遊んでいたから・・・ではないのですか?」
 頤に指をあて、小頸を傾げる。凛のいつもの癖だ。
「そうだけど・・・でもそれだけじゃないもん」
 後半部はごにょごにょと口の中で消えてしまう。莉来が口篭るのは珍しいのではないだろうか。
 仕事ではなく、自分をほったらかしにしたのが気に入らない───などと口に出すのは莉来の矜持が許さなかった。それになにより、そんな素振りでも見せようものなら凛が調子に乗るに決まっているのだ。それもまた、気に入らないことである。なぜ気に入らないのかは自分でも判らないが、兎に角そういうものなんだから仕方がないのだろう。
「さっき、あたしの言うことを聞くって言ったよね」
「はい」胸の前で祈るような形に指を組み合わせる。「なんでもおっしゃってください。鞭でも蝋燭でも我慢します」
「もうそれはいいってば」
 ちょっとげんなり。
「明日はずっとあたしの助手をすること。いい?」
 わざと怒ったように言い切り、そっぽを向く。実に、素直じゃない。
「莉来さん・・・」二秒ほど固まり、「莉来さぁ〜んっ♪」
 がばっと抱きつ───こうとして、莉来のマジカルステッキに迎撃される。
「痛ひでふ・・・」
 涙目で抗議するも、あっさりと棄却される。それでもちょっぴり嬉しかった。明日は莉来とずっと一緒にいられるのだから。
 しかし、それが悪夢に転じようとはこのとき凛はおろか莉来でさえ想到することはできなかった。

 翌十六日。
 未だ明けきらぬ薄明の内からことこと、ことこと、という音と共に良い匂いが漂って来る。
「おはよう、れつ子ちゃん。朝早くから精が出るね。ふわぁ」
 くしゃくしゃと髪を掻きながら欠伸をする。眼鏡が半分くらいずり落ちかかっており、全身で起きたばかりですと主張していた。
「おはようございます、ご主人様」
 れつ子がやわらかい微笑みを浮かべながら振り返る。右手におたま、左手になべの蓋、白いエプロンを装備したれつ子は完璧だった。なにがどう完璧なのかは説明しにくいが、男の浪漫的に完璧だった。
「あぁ、美味しそうな匂いだね。どれ」
 と言うなり手近にあった粉吹き芋をひょいと掴み口の中に放る。
「うむ、ほくほくだ」
「あっ、つまみ食いしちゃ駄目です。ご主人様の分はちゃんと別に用意してありますから。もうっ」
 しょうがないんだから、と言いつつも本気で怒っている素振りはない。いつも通りの光景である。
 れつ子の言うご主人様はいわゆる「お屋敷のご主人様」ではない。「お屋敷のご主人様」の友人であり、ビザンツなプログラマー(なんだそれ)のThe fighting million instructions per secondである。何と戦っているのかは知らないが、まぁ色々なものと戦っているのだろう。特に欲望とか・・・。
「それにしても今朝は随分と豪勢だなぁ。なにかあったのかな?」
 見れば、作りかけとは言え、テーブルの上にはいつもの倍近い量が並んでいる。それでありながら、冷凍食品や出来合のものなどはただの一つも使われていない。全てれつ子お手製である。
「あ、それは・・・」
 れつ子の頬が朱に染まる。
「なるほど、琉奈ちゃんとデートか」
 ふむふむ、と頷く。ついでに羨ましいなぁとかも言ってみる。
「まぁ、仲の良いことはいいことだよ、うん」
 仲が良いというには少々複雑な部分もない訳ではないが、まぁ概ねオーケーと言えるだろう。ということにしておこう。
「楽しんでおいで」
 れつ子の頭をぽんぽん、と軽く二三度叩き、厨房を後にする。その際にしっかりとつまみ食いをして行くことは忘れなかった。

 さて、その頃。
 お屋敷の厨房からもトントントンとテンポのよい音が聞こえて来る。
「ふんふふふふ〜ん♪」
 鼻歌交じりに手際よく調理していく。かなりノっているようだ。すいっと左手を伸ばし、フライパンの柄を握る。くっ、と僅かなスナップをきかせただけでフライパンの中から卵焼きが浮き上がり、くるっと半回転して再びその中に着地する。この間、手元なんて見ていない。その視線はソースを作る為のボウルに向けられている。
 ボウルの周りには塩やら胡椒やらピーナッツオイルやらといったものがずらりとならんでおり、それらを目分量でボウルに放り込んでいく。このへんはさすがに手馴れたものだ。
「・・・うにゅ、琉奈っちおはよー」
 寝惚け眼を擦りながら莉来が入ってくる。その後ろには髪をきっちりとお団子状に結った凛が付き随っている。
「おはようございます、琉奈さん」
 ぺこりと一礼。
 普段はほぼ完璧とも言ってよい凛が、なぜ莉来の前でだけはあそこまで壊れるのかと、琉奈は常々不思議に思うのだった。
「なにかお手伝いできることはございますか?」
「うーんと、じゃあ碧さんを起こして来てもらえます?」
 メイド頭という位置にありながら、碧は朝が弱かった。低血圧だと言われているが、琉奈などは深酒のしすぎではないかとも言っている。
「はい、では碧さんを起こして参りますね」
「起きてますわよ・・・」
 振り返れば、機嫌の悪そうな碧が厨房の入り口に凭れ掛かるように立っていた。毎朝のことではあるが、少々近寄り難い雰囲気がある。
「あ、では旦那様を起こして参りましょうか?」
 この屋敷のご主人様のことを旦那様と呼ぶのは凛だけである。当家の使用人ではないことがゆえの節度というものだろうか。
「お願いできますか?」
 お任せください、と胸を張る凛。わざとやっている訳ではないことくらい知っているのだが、やわらかそうに揺れる胸を見せ付けられると羨ましくなってしまう琉奈であった。
「えっと、じゃあ莉来ちゃんはこっちを手伝って。碧さんは珈琲でも飲んで早く目を覚ましてください。凛ちゃんはご主人様の方、よろしくね」
 てきぱきと指示を出す琉奈。朝の内は碧がいまいち使い物にならないので、いつ頃からか自然とこうなってしまっていた。
「さて、今日も一日頑張りましょう!」

 カーテンの隙間から差し込む一筋の光が薄闇を切り裂いている。
 ご主人様は未だ微睡みの中にあった。
「旦那様、お起き下さい」
 ゆさゆさ。
「旦那様、お目覚めの時剋ですよ」
 ゆさゆさ。
「・・・うぅん」
 のそり、と起き上がる。ぼへーっとした目を凛に向け、訝しげに見る。
「お目覚めになられました?」
「・・・失格」
「えぇっ!?」
 胸に手をあて仰け反る凛。確かにいきなりそんなことを言われたらショックだろう。
「や、やっぱり私では御不満ですか?」
 不安そうな凛など気にもとめず、無言で自分の腰の辺りを差す。
「朝のご挨拶をするように教わっていないのかい?」
「え、それはもしかして・・・アレ、でしょうか?」
 顔を赤らめ、聞き直す。が、それには答えず、ただニヤリとする。
「わ、判りました。旦那様がそれをお望みでしたら・・・」
 意を決し、ご主人様の陽物に手を伸ばす。さすがに朝だけあり、それは夜着の上からでも判る程に大きくなっていた。
「あ・・・」
 顔が紅潮するのが判る。夜着をはだけ、膨張した陽物と対面する。それは凛の予想よりも遥かに大きなモノであった。それに両手を添え、そっと口に含む。
 ねっとりと生温かいものが陽物を包み込み、ゆっくりと顔を前後に動かす。凛の口中は唾液で一杯になり、じゅぷ、じゅぷ、と淫靡に濡れた音を響かせる。
「銜えてるだけかい? もっと舌を這わせて舐めるんだ」
「は、はい…」
 凛の舌が雁首から竿へと裏筋を伝い、陰嚢へと達する。そしてやや躊躇った後、窄まった菊座に舌を這わせる。
 その感触に、目が覚めた。
「・・・え? 凛、ちゃん?」
 脳が真っ白になる。状況が理解できない。
「はふぅ・・・旦那様?」
 しとどに濡れた顔を上げて凛が訝しげに見る。
「な、なにやってるんだ!?」
「えぇっ!? だ、旦那様がナニをナニしろっておっしゃられたのですよ・・・って、もしかして寝惚けていらしたのですか!?」
 ガーン、と大きな描き文字がバックに流れる。
「そ、そんな・・・ひどいです。しくしく」
「ご、ごめんっ。───あの、あとは自分でやっておくから、その、ソレを放してくれないかな?」
 見れば、凛の手はまだ陽物を握ったままであった。
「あの、旦那様?」
 凛の手の中でそれはびくびくと脈打ち、さらなる刺激を求めているように見えた。
「よろしかったら、このまま続けさせていただけませんか?」
「え?」
「その・・・させていただきたいのです。ご迷惑でなければ、ですけど」
 見上げる凛の顔は羞恥に朱く染まっており、その潤んだ薄紫色の瞳が嗜虐心を疼かせる。
「・・・いいのかい?」
 それには答えず、凛は再び陽物を口に含んだ。先程までよりも激しく、しかし優しく舌を這わせて舐め上げる。
「凛ちゃん、胸で・・・してくれないかな?」
「ん・・・はぁ・・・。はい、旦那様」
 上目遣いに見上げる凛の瞳には淫蕩な光が宿り始めていた。
 エプロンを外し、ワンピースの胸をはだける。薄い水色のブラジャーに包まれた豊かな双丘が零れ落ちんばかりに飛び出して来る。
「・・・きれいだな」
「ありがとうございます」
 にこりと笑う。
 陽物を双丘に挟み、ゆっくりと擦り上げる。はみ出した先端部はしとどに濡れ、うっすらと白く濁った汁を滲ませている。凛は舌を伸ばしてそれを舐め取り、鈴口をちろちろと弄ぶ。
「凛ちゃん・・・くっ・・・いいぞ」
「んっ・・・旦那様、ありがとうございます」
 陽物を擦る速度が上がる。それにともない、白濁した汁の量も増えてくる。
「旦那様の…熱くて…はふぅ…ん…」
 舐めるだけでなく、ときに銜え、口全体でしごき上げる。
 じゅぷ、じゅぷ、という音とともに多量の唾液が漏れる。
「・・・くっ、イキそうだ」
「あぁ…顔に…顔にかけてください…」
「───!」
 大量に放出された精液が凛の顔を白く汚していく。
「・・・あ、はぁ・・・」
 びくり、と凛の身体が震える。こちらも達したらしい。
「・・・ごめん、汚しちゃったな。なにか拭くものは・・・」
「大丈夫ですよ」
 にこり、と笑い、眼鏡を外す。それは真っ白に染まり、もはや眼鏡の役割を果たしてはいなかった。
「あ…こんなにいっぱい…。ふふっ、嬉しいです」
 舌を伸ばし、レンズにこびりついた精液を舐め取る。こくん、と凛の喉が鳴った。
「凛ちゃん、そんな無理しなくても」
 眉根を寄せて耐えるような表情の凛の肩に手を乗せる。
「いえ、旦那様の、濃くておいしかったですよ」
 涙目で言われても、とは思うが、かといってかけるべき言葉も見当たらなかった。
「あの、すみませんでした。こんなことしちゃって・・・」
 床に擦り付けんばかりに頭を下げる。
「いや、元はと言えば寝惚けていた僕が悪いんだし、むしろ謝るのは僕の方じゃないかな・・・って、絶対そうだよ」
「いいえ、悪いのは勘違いした私です」
「いや、僕だ」
「私です」
「僕だ!」
「私です!」
 むーっ、と一歩も引かない二人。
「・・・じゃあ、両方悪かったってことにしよう」
「そうですね、きりがありませんから」
 くすり、とどちらからともなく笑いあった。
「・・・と、それよりもこのことはみんなには内緒にね」
「はい、判っています」
 もしも知られたならば、それは惨劇の幕開けになるだろう。
「カーテン、開けましょうね」
 しゃっと小気味良い音をたててカーテンが引かれると、眩しい程の朝の光が部屋の中を照らし出した。
 その中で凛の身体は透き通るかのように見えた。色素の薄い髪は光の加減で水色に輝き、肌はほんのりと桜色であった。まるで淡い色だけを選んで描かれたかのようで、心もとなささえ感じられる。
「あ・・・」
 一瞬、光の中に消えてしまいそうな気がして手を伸ばす。が、凛はやはりそこに静かに立っており、怪訝そうに見つめ返している。
「どうかなさいました?」
「いや、なんでもないんだ」
 そう、なんでもなかったのだ。このときは。

「お姉ちゃ〜ん、こっちこっち〜」
 れつ子が手を振って琉奈を呼ぶ。
 れつ子に続いて正門から入るなりベニイロフラミンゴ、チリーフラミンゴ、ヨーロッパフラミンゴといった色鮮やかなフラミンゴらが目に入る。ほかにも
白鳥や鴨、雁などがゆったりと泳いでいる。
 二人は今、旭山動物園に来ていた。ここは旭川公園に隣接しており、家族連れで来る客も多いためなかなかの賑わいを見せている。
 この先にはペンギン館やもうじゅう館、ほっきょくぐま館、小獣舎───といろいろあり、一日いても飽きることはないだろう。
「はぁ、はぁ、元気ですね、れつ子さんは」
 ようやく追い付き、一息つく。
「お姉ちゃんと一緒だから、嬉しくてたまらないんです」
 満面に笑みを湛えて放った一言は、琉奈にとってコーナーポストで側頭部にシャイニング・ウィザードを打ちこまれたに等しかった。
「えへへ、今日が来るのをずっと待っていたんですよ」
 ぎゅっと琉奈の腕に抱き付き、上目遣いに見上げる。いつもよりも甘えた感じのその口調が、その一挙手一投足の全てが愛しく感じられ、今の琉奈はナガタロックががっちりと極まってしまっているのにも等しかった。
「れ…」
「お姉ちゃん?」
「れつ子ちゃんっ!」
 がばっと抱きしめ、すりすりと頬をすり寄せる。
「くすくす、仕方がないですね、お姉ちゃんは」
 琉奈の背に腕を回し、抱きしめあう。じろじろと見られているようではあるが、気にはならなかった。二人とも嬉しさと愛しさで胸が一杯だったのだ。
 そんな訳なので、物陰から二人を監視する影があることになんてとても気付く筈はなかった。
「あう〜、れつ子にあんなに密着しているよぉ」
 がしがし、と柵の鉄棒に歯を立てる。かなり丈夫にできているらしい。
「落ち着けよ。ったく、れつ子が琉奈様とラブラブだってことはみんな知ってることだぜ」
「そんなことは判ってるってーのよ!」
 がうがう、と噛みつかんばかりの勢いで振り返り、頭の両側で束ねた髪が勢いあまって自分の顔を殴打する。
「〜〜〜っ!」
「莫迦だろ、おまえ」
 はぁ〜っと呆れたように肩を竦め首を振る。
「あうぅ、だいたい、なんでここにデカ女がいるのだー」
 涙目になりながら見上げるように睨み付ける。中学生ながらも一七〇センチを超える長身の普久子と一五〇センチに満たない真紅とではどうしてもこうなってしまう。それもまた腹立たしさを増してくれる。
「う、それは・・・って、オレが動物園にいちゃ悪いと言うのか? えぇ?」
 ぐりぐりと真紅のこめかみに拳骨を捻り込む。
「あ〜うぅ〜、こ、これはキクのだ〜」
 さすがにふらふらする真紅。
 二人とも示し合わせて来た訳では無論、ない。ではあるのだが、二人がここで出会うのは偶然などではなく、ある意味必然とも言えた。まぁ、それが幸か不幸かは別として。
「・・・ちっ、莫迦の相手をしていたら見失っちまったじゃねぇか」
 確かに、普久子の視界からは琉奈とれつ子の姿は消えていた。これだけ騒いでいたのだから、こちらを発見されなかっただけでも幸運だったと言えるのではないだろうか。
「くそっ」
 ぽいっと真紅を投げ捨て、ズカズカとその場を立ち去る。
「あ〜う〜、待つのだ〜」
 ふらふらと覚束無い足取りで普久子を追う。追ってどうしようという訳でもないのだが、半ば条件反射というものか。

 その頃、琉奈とれつ子はペンギン館の中にいた。
 入り口はオーロラをイメージした照明が刻一刻と色を変え、まるで南極を思わせる。その先はガラス張りのトンネルになっており、三六〇度、どこを見てもペンギンがまるで飛ぶように泳いでいる。
「うわー、うわー」
 瞳を輝かせ、れつ子が子供のようにはしゃぐ。いや、実際まだ子供なのだが。
「れつ子ちゃん、この先にはもっと楽しいものが待っていますから、あまりはしゃぎすぎると疲れてしまいますよ」
 れつ子の手前、お姉さんぶって窘めてはいるものの、本当は琉奈もはしゃぎたいところであった。
「お姉ちゃんは、ここに来たことあるんですか?」
 後ろ手に組み、くるりと振り返る。れつ子の髪がふわりと揺れ、甘く、それでいて爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
「あ、うん。以前、ご主人様と一緒にね。碧さんと莉来ちゃんの邪魔さえ入らなければもっと楽しかったのですけど・・・」
「ふぅん・・・」
 心為しか、れつ子が淋しそうに相槌を打つ。
「どうかしましたか?」
「お姉ちゃん、やっぱりご主人様と一緒の方が楽しいですか? お姉ちゃんは優しいから、あたしなんかともこうして一緒にいてくれるけど・・・でも・・・」
「れつ子ちゃん、なにを言っているの?」
 れつ子の両肩を掴み、正面から向き合う。
「わたしがれつ子ちゃんとこうしているのは、れつ子ちゃんといると楽しいからです。れつ子ちゃんのことが好きだからです。確かにご主人様のことも愛していますが、でも、それと同じくらいにれつ子ちゃんのことも愛しく思っていますよ。───信じられませんか?」
「お姉ちゃん・・・」
 見上げるれつ子の瞳が潤む。
「信じさせてあげます」
 優しく微笑み、琉奈はれつ子の唇に自らのそれをそっと重ねた。
 れつ子の唇はとても温かく、そしてクリームのように甘くてやわらかかった。

 微睡を誘うようなうららかな日差しの下、テラスではお茶会が開かれていた。と言っても、ご主人様と碧、莉来、凛の計四人だけのささやかなものではあったが。
「あぁ、いい眺めだねぇ」
 ご主人様がティーカップを置き、嘆声を洩らす。
 テラスから見下ろす庭園は綺麗に刈り込まれ、塵ひとつさえ落ちてはいない。
管理人の細心の注意の賜物であることが見て取れる。
「お褒めに与り、光栄ですわ」
 嫣然と碧が笑う。
「旦那様、スコーンはいかがですか?」
 焼き立てのスコーンに数種類のジャムを添えて凛が差し出す。焼き立てだけが持つ特有の香ばしさが食欲をそそる。
「あぁ、じゃあ頂こうかな」
 取ろうと出した手が、同じく差し出そうとした凛の手に触れる。
「あ・・・」
 どちらともなく手を引っ込める。
「ご主人様も凛さんも、どうなさいましたの? 顔が赤いですわよ」
 さすがに目敏い。
「あ、いや、なんでもないんだ。な、凛ちゃん」
「はい、なんでもありません。なんでもないんです。いつもはR二五五、G二四七、B二四二がたまたまR二五五、G二一五、B二三三くらいになっちゃっただけなんですよー」
 動顛しているのか、何を言っているのか判らない。
「ナニかありましたわね」
「なななナニを言うんだ碧サンっ!?」
「ご主人様は黙っていてください」
 ぴしゃりと言い放つ碧。
「凛お姉ちゃん・・・なに、したの?」
 じっと見つめる莉来。
「うぅっ、例え莉来さんでも、いいえ、莉来さんだからこそこれだけは言えません〜」
 これではナニかあったことを裏付けているようなものであった。
「誘導尋問なんて卑怯だぞ!」
「ご主人様は黙っていてください!」
「・・・はい」
 もはや威厳なんて影も形もない。
「で、凛さん、ナニをなさいましたの?」
「カタカナでナニナニ言わないでくださいよ〜、くすん」
「泣いても駄目」
 莉来は非情だった。
「そ、その・・・旦那様のナニを・・・お口で・・・」
 きりきりきり───と音を立てて、碧の元々吊り上り気味の目がさらに吊り上っていく。
「凛さん・・・貴女、とんだ泥棒猫でしたのね・・・」
 憎悪さえ感じさせるその声は、その場の空気を凍りつかせるに充分だった。
「ち、違う。僕が寝惚けて、その・・・」
「旦那様は悪くありません。私が勘違いしたのがいけないんです!」
 庇い合う二人に、碧の怒りゲージが上昇する。
「おほほほほ、そうでしたの。お二人はそんなに仲がお良ろしかったんですのね。お二人には相応のお仕置きをしなければいけませんわ。───莉来さん」
「ん」
「あ、莉来さん・・・」
 弱々しく呼びかける凛。しかし、莉来の目は冷たかった。
「馴れ馴れしく呼ばないで。凛おねえ・・・あんたなんか、もういらない」
「あ・・・・・・」
 がくり、と膝をつく。なにか大切なものを失ったかのような気がして、身体の芯が冷える。とても立っていられそうもない。
「やめろ、莉来! おまえ、今なにを言ったのか判っているのか!?」
 激昂し、立ち上がる。しかし、その裾を凛が掴み、ふるふるとかぶりを振る。
「おやめください、旦那様。それ以上私を庇っては旦那様が恨まれます」
 ぱん、と乾いた音がして凛が倒れる。見れば、碧が赤くなった右手を押さえて戦慄くかのように震えながら立っている。
「そのいい子ぶったところは虫唾が走りますわ。それに、貴女が心配などしなくても、もう充分に恨んでいましてよ。───ねぇ、ご主人様?」
 睨むように一瞥する。
「・・・碧・・・そんなに、僕が憎いか?」
 凛を助け起こしながら碧を見返す。射るような視線に負けまいとするかのように、強く、強く。
「なぜ・・・なぜ凛さんなのです!? 琉奈さんが相手ならまだ納得もできますわ。でも、わたくしでも琉奈さんでもなく、なぜ凛さんなのですか!」
 いつも気丈な碧の瞳が潤み、目尻に光るものが溜まる。
「いや、だからそれは寝惚けて・・・」
「聞く耳持ちません!」
 今の碧は激情に流されていて話しにならないと見たか、莉来の方へと視線を走らせる。───無視された。
「碧っち、話が進まない」
 氷点下並みの温度の声に、碧もやや落ち着きを取り戻す。
「そうでしたわね。今はご主人様のことよりも、この泥棒猫にお仕置きをしなくてはいけませんわ。───いつまでそうなさっているおつもり?」
 ご主人様の胸に抱かれる格好の凛の腕を掴み、引き摺り起こす。よろよろと起き上がるが、とさ、とすぐに頽折れてしまう。
「よせ、碧!」
 止めようとするが、後ろから莉来に押さえられる。非力な莉来に押さえられただけだというのに、まるで魔法をかけられたかのように身動きが取れない。
「莉来、おまえまで!」
「ご主人様が・・・いけないんだよ。あたしの───を、取っちゃうから・・・」
「莉来・・・おまえ・・・?」
 いつも表情に乏しい莉来ではあるが、今は無表情と言うよりも生気に乏しく、まるで幽鬼めいて見えた。
「貴女のような浮かれ女には多少のお仕置きでは生温いでしょうから、徹底的に辱めてさしあげますわ」
 いきり立つ碧とはうらはらに、凛は力のない微笑を浮かべるだけであった。
だがそれがまた碧の癇に触れ、凛の頬を平手ではたく。
「碧さんのお好きなようになさってください。私は・・・もう・・・」
(莉来さんが私をいらないと言うのでしたら…だったら、私にはもうなんの価値もないのですね。それならもう、どうなってもいい・・・)
 そっ、と莉来を見る。莉来もこちらを見ていたのか、二人の視線が絡み合う。そこには言葉にできない複雑な色があった。
「・・・もう一度、ご主人様に同じことをして」
 無理やり感情の色を消して絞り出すように呟く。
「莉来!?」「莉来さん!?」
 驚く二人とは異なり、凛はただ微笑を浮かべている。もう、それ以外の表情ができなくなってしまったかのように。
「早く」
「・・・はい」
 のろのろと、四つ這になってご主人様に近付く。
「や、やめるんだ凛ちゃん」
「・・・申し訳ありません、旦那様。すぐ済ませますので、御不快でしょうが我慢してください」
 歯でファスナーを下ろし、口を使ってご主人様の未だ萎えたままの陽物を引き摺り出す。
「まるで盛りのついた雌犬ですわね」
 碧が汚らわしいものでも見たかのように吐き捨てる。莉来は依然として無言のまま熟視を続けていた。
「・・・は・・・ぁふぅ・・・」
 ご主人様の陽物を口に含み、舌を絡ませる。陽物は次第に硬度を取り戻し、凛の口の中を荒々しく犯し始める。
「・・・んっ・・・」
 もぞもぞと、凛の右手が自らの秘所に延び始める。そこは既に熱をもっており、凛の指を難なく受け入れる。その痴態に陽物が一層硬度を増す。
「・・・あ、旦那様、感じてくださるのですね・・・嬉しい・・・」
 さらに深く銜え込み、喉の奥で締め上げる。
「・・・くっ」
「・・・まだダメですよ」
 くすり、と笑う凛。それはぞくりとする程に淫猥な笑みだった。
「同じことをしなくちゃいけないんですよね・・・」
 するするとエプロンをはずし、ワンピースの胸元をはだける。豊かな胸が陽の光に晒され、透けるほどに白い肌が現実感を失わせる。
「旦那様・・・」
 荒々しくも猛々しい陽物を双丘にはさみ、ゆっくりと上下に動かしてゆく。鈴口からは白みを帯びた粘液が滲み出し、さながら潤滑油のようである。
「旦那様、いかがですか・・・?」
「・・・く、もうやめろ、凛・・・」
 深いところから駆け上がってくるモノを感じ、腰を引こうとするが、莉来に押さえられていて逃げることができない。
「・・・だめ、だ」
 堪えきれず、放出する。朝出したばかりとは思えない程の量の精液が凛の顔から胸までを白く染め上げる。
「・・・ぁ、はぁ・・・」
 胸にかかった精液を指で集め、それを口に運ぶ。
「・・・おいしいです、旦那様・・・」
 口の端から精液を垂らし、陶然とした笑みを浮かべる。
「凛さん・・・なんて・・・ことを・・・」
 ふらふらと、熱に浮かされたように凛に近付き、その顔にべっとりと付着した精液に舌を這わせる。
「・・・これが・・・ご主人様の味・・・」
 こくん、と碧の喉が鳴る。
「み、碧・・・」
「碧さん・・・」
 凛が碧の頬に片手を添え、唇を重ねる。舌を絡ませ、お互いの口中を唾液と精液で満たしてゆく。くちゅくちゅと淫猥な音が響き、二人の口の端から白みがかった半透明の液体がだらしなく垂れる。もう一方の手は太股を割り、熱く湿った秘所に滑り込む。陰核は既に勃起しており、凛の指が触れただけで碧は熱い息を洩らし始めた。
「感じちゃったんですね、碧さん・・・」
 陰核を弄んでいた指をスリットに這わせ、ゆっくりと侵入させる。そこはとても熱く、ねっとりと絡み付き、深く、深く、呑み込んで行く。熱い瀝を纏わらせた三本の指は浅く、深く、碧を攻め立てる。その度にくちゅ、くちゅ、と淫猥な音と共に淫水が糸を引いて瀝り落ちる。
 碧も凛も、既に顔中精液と唾液で濡れ光っている。それを莉来はただ冷ややかに見つめているだけであった。
「ご主人様、わたくしにも・・・」
「ま、待て。待つんだ碧」
 ずりずりと後退しようと思うのだが、やはり莉来に阻まれる。
「待ちませんわ」
 素早くにじり寄り、その首にしがみつく。凛を超えるボリュームの胸を押し付け、唇を奪う。
「むーっ、むーっ」
 精液のついた唇を押し付けられてはさすがに逃げたくもなるだろう。
「ご主人様、ご主人様ぁ〜」
 碧の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「わたくしは・・・わたくしは本当にご主人様のことを・・・」
 泣きじゃくる碧の髪をくしゃくしゃに撫でながら、苦笑する。
「ごめんな、碧。僕はおまえも琉奈も莉来も、そして凛ちゃんやれつ子ちゃんんも大切に思っているよ」
 その言葉に、きっ、と睨みつける。
「でしたら、どうして凛さんは抱いてわたくしは抱いてくださらないのですか! 不公平ですわ!」
「抱いてねーっ!」
 絶叫する。
「旦那様がお望みでしたら、私はいつでもお相手させていただきますが・・・」
「そこ、雑ぜ返さないよーに」
 びしっ、と指差して注意する。
「だから、あれは僕が寝惚けて言った冗談を凛ちゃんが真に受けちゃったことによる事故みたいなもので、抱くとか抱かないとか、そーゆーモノじゃないんだよー」
「そ、そうだったんですの?」
 愕然とする碧。本当に聞く耳を持っていなかったらしい。
「で、では、わたくしは凛さんに酷いことを・・・」
 つぅっと冷や汗が垂れる。
「お気になさらないでください。碧さんに叩かれた時、その…気持ち良かったですから・・・きゃっ」
 頬を朱らめ、恥すかしそうに身を捩る。
「…本当にそちらのケがおありでしたのね」
感心したのか呆れたのか、なんとも微妙なニュアンスだった。
「…と、莉来さん。莉来さんも謝らないといけませんわよ」
「やだ」
 カキーンと、間髪入れずに打ち返す。そりゃあもう、場外まで飛んで行くくらいに気持ちよく。
「莉来さん…」
「気安く呼ばないで、と言ったよね」
 取り付く島も無い。
「すみません。でも、莉来さんのことはそれ以外の呼び方をしたくないのです。莉来さんにとって、私はもう見るのも厭わしい無価値な存在かも知れませんけれど、私にとって莉来さんはただ一人の莉来さんですから」
 もはや伝わらないことを覚悟して、それでも万感の想いを込めて語りかける。
「じゃあ、どうして…」何かを堪えるかのように「どうして、ご主人様を見るの? どうして、碧っちを見るの?」
「莉来さん…?」
「ご主人様とえっちをしているとき、ご主人様だけを見ていた。碧っちとえっちしているとき、碧っちだけを見ていた。───どうして、あたしを見てくれないの!?」
「莉来さん…それは…もしかして…」
 嫉妬、というものだろうか。感情をあまり表に出さない莉来が、まさかそんな想いを内に秘めていたとはそれこそ思いも寄らぬことであった。
「あたしを見て! もっと、もっと、片時も目を離さないでいて! お願いだから、見捨てないで!」
 思いがけぬ感情の発露に戸惑い、自分を抑えることができない。
「いつも思っていた…あたしは可愛げのない子だから、いつか厭きられて、凛お姉ちゃんが離れて行ってしまうんじゃないかって…それが、怖かった…」
 心の中の寒風が莉来の身体を震わせる。それは、けして一人では吹き止むことのない風。その風を止めることができるのは───。
「莉来さん…こんな私でいいのですか? 私は、まだ莉来さんの傍にいてもいいのですか?」
 知らず、凛の頬を涙が伝う。
「お願い…あたしを離さないで。あたしだけを見てくれなくてもいいから…だから、離さないで…」
「莉来さん、それは私の台詞です。私は莉来さんの傍にいても…莉来さんを見ていても…いいのですね…?」
「うん…うん…!」
 莉来と凛が二人の世界に入っているうちに、こっそりとその場を離れるご主人様と碧。さすがに見ていて気恥ずかしい。
「一時はどうなることかとヒヤヒヤしたけど、まぁ、なんとかまとまってくれて良かったよ」
「わたくしとしたことが恥ずかしいところをお目にかけてしまい、なんとお詫びしてよいものか」
 別の意味で恥ずかしい姿も見せてもらったけど───などとはさすがに言えない。
「いや、まさか莉来がねぇ…」
「わたくしも、ご主人様にわたくしだけを見ていてほしいですわ」
 そっとご主人様の背中に凭れ掛かる。
「あ、あはははは」
 それは無理だろう。それにしても、凛と碧を抱けるチャンスだったかも知れないと思うと、ちょっとだけ惜しかったような気もする。後で、頼んでみようか───などと頭の片隅で考えたとき、
「ご〜しゅ〜じ〜ん〜さ〜ま〜?」
 地の底から響くような、背筋がぞくりとする声が現実に引き戻す。
「何をお考えでしたの?」
 心の底まで見透かすような碧の視線に怯み、つい二三歩下がってしまう。碧のお説教に捕まったら軽く一時間はお小言を聞かされる羽目になるだろう。
「あ、あぁ、そうだ、用事があったのを思い出した。それじゃあ、僕はこれで!」
 したっ! と手を挙げてしゅたたたたーっと走り去る。
「あっ、お待ちくださいご主人様っ。───もう、困った方」
 困った方、とは言いながらも顔は笑っている。そっと唇に触れてみる。
「ご主人様…次は既成事実ですわ!」
 新たな野望を燃やす碧であった。

 ペンギンたちがとてとてと歩き、じゃぽんと水中に飛び込む。かと思うとじゃばっとそれこそ飛ぶような勢いで飛び出して来る。
 中央広間の床には南半球の地図が描かれ、飼育されている三種類のペンギンの分布が示されている。天井からは泳いでいるペンギンのオブジェが下がり、なかなかに浪漫チックと言えるだろう。
 この中央広間からは水中や陸上のペンギンを観察できるような造りになっている。琉奈とれつ子は寄り添いながらペンギンの様子を眺めていた。
「ペンギンって、やっぱり鳥なんですねぇ」
 感心したように琉奈が呟く。
「こうして見ているとまるで水中を飛んでいるようです」
「たとえ空は飛べなくても・・・水の中を飛べる・・・そうか、そうなんですね・・・ありがとう、お姉ちゃん」
「はい? なんのことですか?」
 なぜ礼を言われたのかさっぱり判らない。
「あたしはどんくさくて、人に誇れるものがなんにもありませんけど、でも、あたしにもにいいところがあるって、あたしにしかないものがあるって、そう励ましてくれたんですよね」
「えぇっと・・・」
 そんなこと、欠片程も考えていない。と言うか、それ以前にれつ子に誇れるものがないなどと思ったことすら無い。多少どんくさいところがあるのは事実だが、しかしそれを疎ましく思ったことなど一度も無く、むしろ微笑ましささえ覚えていたというのに。だが、当人としてはそれなりに悩んでいたのであろう。それが、琉奈の言葉で吹っ切れた、ということか。
(なにか勘違いしたみたいですけど・・・まぁ、結果オーライですね)
 わりと大雑把な性格だった。
「お姉ちゃん・・・」きゅっ、と琉奈を抱きしめる。「大好き・・・」
「れつ子ちゃん・・・」
 そっと、れつ子の頭をなでる。
「わたしも、大好きですよ」
 数日前までは、れつ子との関係に微かな不安をもっていた。一個の人間として心から愛しているとは言え、傍目にはレズビアンであり、世間一般的には異常扱いされかねない。ましてや、琉奈はご主人様に対しても深い愛情を、それこそれつ子に対するものと同じくらいの愛情を抱いている。それを不実であるとは思わないが、しかしれつ子に対して後ろめたさがあることは否めない。だから、もしもれつ子が男性に対して恋心を抱いたらどうなるのか、などという考えに走ってしまう。後ろめたさによる逃避であり、無意識のうちにれつ子にも自分と同じ罪を求めてしまっていたのか。
 それこそ不実だ。
 碧に窘められて、自らの心の澱みに気が付いた。無論、碧は琉奈の心の底まで見抜いた訳ではない。だが、碧の言葉は琉奈の心の澱みを浚い、清冽な息吹をそそぎ込んだ。
 ご主人様もれつ子も、どちらも大切な、かけがえの無い存在だ。ならばどちらも愛すればいい。今はそれでいい、と思う。いつかは選ぶ時が来るのかも知れないが、しかし、それは今ではない。
 そう言えば、莉来はどうなのだろうか。あの子も自分と同じように葛藤するのだろうか。いや、莉来はそれほど他人に執着するような性質ではない。珍しく凛とは気が合っているようだが、しかしその程度のことなのだろう。あの子が凛の為に悩む姿など想像だにできない。ありえないことなど考えていたところで、所詮それは戯言にすぎないだろう。
「お姉ちゃん・・・?」
 訝しそうに見上げるれつ子。
「なんでもありません。それより、少しお腹が空いて来ませんか?」
 きゅるるるぅ〜。
「くすっ、お姉ちゃんったら」
 口元に手を当て、くすくすと笑う。
「わ、わたしじゃありませんよ? それより、あちらの方から聞こえたような気がしますが・・・」
 別に恥ずかしくて誤魔化そうとした訳ではない。本当に、違う所から聞こえたのだ。
「あっち・・・?」
 琉奈の指差した方に顔を向け、意味の無いことを悟る。人が多い。こんなに人がいては誰かの腹の虫が鳴いたところでそれを特定できないし、また特定できたところで意味の無いことだ。
 そう、意味は無いのだ。無いのだが、妙に気になると言えば気になるものでもあった。

「ふぅ、いきなりれつ子がこっちを見るとは思わなかったぜ」
 物陰に身を潜め、胸を撫で下ろす。
「あやうく見つかるところだったね〜」
途端に、普久子の脇から顔を出していた真紅の頭に鉄拳が落ちる。
「てめえが腹の虫なんか鳴らすからだろーが!」
「あうぅ、今朝は寝坊したからご飯食べてる暇がなかったんだよぉ〜」
 きゅるるぅ〜と鳴るお腹を押さえ、涙ぐむ。しょうがねぇなぁ、と呟き、普久子はポケットから小さなチョコレートを取り出す。
「あまり腹の足しにはならねぇだろうが、なにもねぇよりはマシだろ」
 ほれ、と放り投げる。
「あぅ、ありがとうなんだよ」
「あぁ、判ったから、もう腹の虫鳴かすんじゃねぇぞ」
 しっしっ、と手を振り、再び物陰からこっそりと頭を出す。
 きゅるるるぅ〜〜。
「て・め・え・は・よぉぉ〜」
 ぐりぐりぐりぃ〜っと真紅のこめかみに拳骨を捻り込む。
「あうっ、あうっ、こればっかりは仕方ないんだよぉ〜」
 周りの客が二人を奇異そうに見るが、そんなことには頓着しない。
「見つかったらどうするんだよ。あぁ〜ん?」
 ぐりぐりぐりぃ〜。
「・・・普久子さんに、真紅ちゃん・・・?」
「……」
 ぎぎぎぎぎ、と軋みをあげながら振り返る。そこには普久子と真紅を怪訝そうに見つめるれつ子と琉奈が立っていた。
「よ、よう。れつ子じゃないか、奇遇だな、あはははは」
 頭を掻きながら誤魔化そうとするが、あからさまに怪しかった。
「うに〜、それじゃ余計に怪しいのだ〜」
 ごん。
 実にいい音を立てて真紅が床に沈む。
「き、今日はどうしたんだれつ子。あぁ、琉奈様とデートか」
「そうだけど、でも、普久子さん…?」
 二歩、三歩と後退する普久子。
「待って」
 琉奈の声に普久子の歩みが止まる。
「な、なんでしょうか琉奈様」
「普久子さん、と言ったかしら? れつ子ちゃんのお友達でしょ? よろしかったら一緒にお昼でもどう? わたしもれつ子ちゃんもいっぱいお弁当作って来ちゃったから、少し多いのよ」
 お弁当、の部分に反応した真紅ががばっと起きあがる。
「お弁当!?」
 きゅるる〜。
 くすくすくす、とれつ子が笑う。
「作りすぎちゃったから、良かったら食べてもらえませんか?」
 こくこくこく、と超高速で何度も頷く。
「普久子さんも」
「あ〜、じゃあ、ご相伴に与らせてもらうわ」
 ばつが悪そうに頭を掻く。
「賑やかなお昼になりそうね」
「はい、お姉ちゃん」
 二人だけでまったりとした時間をすごせないのは少しだけ残念だが、こんな賑やかなときも悪くはない。まだまだ、時間はたくさんあるのだ。
 これからどんなときをすごしていくのかは判らないが、振り返った時に充実した時間をすごしていたと思い出せるならば、それに優る喜びはないのだろう。愛する人とすごした時間は何物にも代え難く、心の中でいつまでも宝石のように輝き続けるだろう。
 琉奈とれつ子はどちらともなく手を握り、歩き出した。

Fin


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