たぶん平穏な日々 その2


 わずかに開いていた窓から、いたずらな風がそよりと忍び込んで碧の髪を優しく撫でる。
「あ・・・」
 風にはほんの僅かに温かみが混ざっていた。まだ肌寒さは残るものの、切るような冷たさはもはやない。春の足音が聞こえて来るのもそう遠いことではないだろう。
「気持ちのいい風ですわね」
 窓を押し開け、風をいっぱいに招き入れる。さぁっ、と一瞬だけ碧に挨拶をして何処へともなく吹き抜けてゆく。
「もう三月なのですね・・・って、三月ですか。ふぅ、もう一ヶ月経ってしまうのですね」
 憂鬱そうに、ぽつりと呟く。
「そもそも、ホワイトデーというものは男性から女性へ愛の証を贈る日だったと記憶していたのですけれど・・・」
 ホワイトデーの一ヶ月前、つまりはバレンタインデーであるが、その日碧は両手に抱えきれないほどのチョコレートを贈られ辟易していた。近所の女学生達からお姉さまと呼ばれ慕われているのは知っていたし、また悪い気分でもなかったのだが、まさかこれほどの量になるとは予想もしていなかった。
 学生時代から碧は下級生に好かれやすかった。毅然としつつも優美な物腰、清冽とも言ってよい美貌、明晰な頭脳───まさに頼りになるお姉さま。これで慕われない筈がない。
 碧の卒業後、彼女に代わるだけのカリスマ性を備えた人物がいなかったためか、碧は半ば伝説化してしまっていた。そのせいで卒業後もバレンタインチョコを贈られ、今年などは顔も見たことの無い後輩たちからまで贈られる始末であった。
 ちなみにその学校はなぜか女学生に眼鏡着用者が多く、密かに眼鏡っ娘学園などと風俗店めいた呼ばれ方をしていた。この屋敷の主も出資者の一人であるとの噂であり、眼鏡特待生制度があるというのもあながちデマとばかりも言えないのかもしれない。
「たしかあの日は莉来さんや凛さんにも贈り主リスト作製を手伝っていただいたのですよね」
 そうそう、たしか凛からも義理チョコを貰っていたのだった。ブランデーのほどよく効いたチョコレートケーキで、あれは絶品だった。莉来からはチョコまんじゅうだった。まったくもってあの子らしい、と苦笑する。
「お返し、どういたしましょう」
 お返しを用意するのが苦なのではない。どうやって渡したらいいのかが問題なのだ。後輩の誰かに渡しておいて配達を頼むというのもありかも知れないが、チョコを贈ってくれた子たちは皆本人が手渡しに来てくれたのだ。ならばこちらも一人一人手渡ししてお返しするのが筋というものだろう。こういった義理堅さも彼女の人気を上げる要因のひとつではあったのだが、当人はそんなことは露程も気付いてはいなかった。
「窓辺に佇み愁う美女、ですか? 似合わないからやめてくださいよ」
 明るい調子の声の主は琉奈だ。珍しく凛をつれている。
「いきなり失礼な方ですわね。ところでれつ子さんはどうなさいましたの?」
「それなんですが、なんと、学校なのです」
 びしっと人差し指を立てて言う琉奈。そんなに気合を入れて言うようなことでもないと思うのだが。
「南斗も北斗もありませんわよ。・・・あぁ、そう言えば琉奈さんにも義理チョコをいただいていましたわね」
 ごそごそとメイド服を探り、赤い包み紙に包まれたキャンディーを取り出す。
「少し早いですけれど、お返ししましてよ」
「吝嗇くさいですよ、碧さん」
「貴女のくださったモノに比べればまだマシですわ」
 ふん、とそっぽを向く。たしかに琉奈から貰ったチョコは見た目こそ普通だったが、中身はとんでもないシロモノだった。ドリアンチョコ、そう書かれていた。新製品の人柱にしたかったのか、或いは嫌がらせだったのか、はたまたただのギャグだったのか。いずれにしてもロクなものではない。
「心が狭いですよー」
 包み紙を取り、ぽいと口の中に放り込む。
「───!」
 口を押さえ、ソニックブームを起こしながら走り去る琉奈。
「ただの唐辛子飴ですのに、大袈裟ですわね。凛さんもいかがです?」
 にこやかに、しかし超高速でかぶりを振る。
「私はすでに碧さんからお返しはいただいていますから」
「そうでしたかしら?」
「はい」胸の前で祈るような形に指を組み合わせる。「碧さん、おいしいって言ってくださったじゃありませんか」
「そうね、あれは絶品でしたわ。できればもう一度食べたいくらい」
「それで充分です」
 え? と振り返ると凛は嬉しそうに微笑んでいた。
「碧さんがおいしいと言ってくれる、それだけで私には充分すぎるくらいのお返しです」
 思わず凛を抱きしめ、ぐりぐりと頭を撫でる。
「なんていい子なんでしょう。どこかの扁平胸娘にも見習わせたいくらいですわっ」
「誰が扁平胸ですかーーっ!」
 げし、と碧の後頭部にツッコミが入る。
「・・・貴女ね、年長者に向かって拳を上げるのは感心しませんわよ」
 じんじんと痛む後頭部をさすりながら振り返る。
「それに、わたくしはなにも琉奈さんなどとはこれっぽっちも言っておりませんわよ。それとも、心当たりでもおありになられるのかしら?」
 と、此見よがしに胸を突き出す。
「うぬぅ・・・」
 ずい、と突き出された碧の胸の圧力に押されたかのように琉奈が一歩擦り下がる。
「ほぉ〜れほぉ〜れ」
 調子に乗って胸の下で腕を組み、強調させるようなポーズを取りながら琉奈に迫る。
「うぬぬぅ・・・」
 さらに下がる琉奈。
「お〜っほほほ、アイガー北壁も真っ青の絶壁さんはぐうの音も出ないようですわね、お〜っほっほっほっ!」
 ぷちっ。
「なんですかこんな胸―っ。大きければいいってものじゃありませんよーっ」
 絶叫。そして碧の胸をがしっと掴む。
「琉奈さんっ!? ちょっと、なにを───!」
 もみもみもみもみ。
「・・・うぅっ、張りがあって弾力があって、気持ちいいかも」
 ちょっぴり涙を浮かべながら、ターゲットを凛に切り替える。それは獲物を狙う猛禽の眼だった。
「え、ちょっと、琉奈さん、正気に戻りましょうよ・・・ね? きゃあっ」
 ふにふにふにふに。
「・・・うぅっ、柔らかくて蕩けそうで気持ちいいですよぉ」
 さらに、涙。
「でもでも、れつ子ちゃんの胸の方がもっと気持ちいいんですよーっ」
 もはや支離滅裂もいいところである。
「琉奈さん、それは自爆です・・・」「・・・頭が痛いですわ」
 こめかみに指を当て、やれやれと嘆息する碧。
「うぅ〜っ、碧さんも凛ちゃんも垂れちゃえ〜っ。うわぁぁぁ〜んっ」
 脱兎のごとく走り去る琉奈。
「琉奈さん、それでは子供の捨て台詞ですよ…」
 がっくりと膝をつく凛。よほど脱力したのだろう。
「ごめんなさいね、凛さん。見苦しいところをお見せしてしまって」
 苦笑しつつ凛に手を差し伸べる碧。今更取り繕っても仕方が無いのだが、それはそれ、というものである。
「あ、すみません。───ところで、どうかなさったのですか? 物思いに耽っておられたように見えましたけど」
 頤に指をあて、小頸を傾げる。
「あぁ、ホワイトデーのお返しをね、どうしましょうかと考えていたところでしたのよ」
「そうですね。あれだけの量でしたから、お返しともなると…なるほど、碧さんの愁い顔の理由が判りました」
 ね、と微笑とも苦笑ともとれる曖昧な笑顔を向ける碧。
「お義理で返すような真似はしたくはありませんの。皆様がどのような気持ちで渡してくれたのかは判りませんが、わたくしはとても嬉しかったのですから」
「碧さん…」
「でも、ねぇ…」
「そうですねぇ、あの量はちょっと反則ですよねぇ。───あ、そうだ。よろしかったらお手伝いさせてくださいませんか」
「お手伝い? わたくしの?」
「はいっ」
 ぱん、と両手を叩き合わせる凛。
「結構ですわ。申し出はとても嬉しいのですけれど、私事に付き合わせては申し訳ありませんもの」
 碧は潔癖すぎるきらいがあるな、と凛は苦笑する。
「私、明日は莉来さんにクッキーを焼こうと思っているのですけど、焼きすぎて余ったら碧さん、貰っていただけますか?」
 凛には意外と頑固なところがあるのだな、と碧は苦笑する。直截な言い方はできるだけ避け、相手が妥協し易いように仕向けるのは天然なのか計算ずくなのか。
「そうですわね、いっそ凛さんにクッキーの焼き方を教えていただこうかしら。わたくしも知らないわけではありませんけど、凛さんのは一味違いますから。よろしいかしら?」
 このへんが妥協点か。碧と凛はどちらともなく笑いあった。

 身を切るような冷たさはなくなったとは言え、それが暖かいこととはイコールではない。
 れつ子は自分を抱きしめるような格好で身体を擦りながらグラウンドを走っていた。今は体育の授業中であるが、担当教諭が面倒がってマラソンにしてしまったため、みなぶーぶー言いながらもたらたらとグラウンドを何週もしているのだった。もっとも、れつ子が身体を抱きしめるようにして走っているのはなにも寒いことだけが理由ではない。中学生とは思えないくらいに大きすぎる胸が走るたびにこすれて痛い、というのもその理由の一つなのだが、そんなことを琉奈に言ったらまた拗ねてしまうだろう。
「ねぇねぇ、れつ子」
 後ろから追いついて来た女生徒が声をかける。この子はたしかアメリカからの帰国子女である真紅・パットちゃん。隣のクラスに転入して来て一週間程になるが、すでにクラスに溶け込んでいるらしい。内気なれつ子からすれば羨ましいかぎりだった。
「なぁに、パットさん?」
「パットさんは、や。真紅って呼んで」
 頬を膨らませ、抗議する。そんな仕草が可愛らしいとれつ子は思った。
「えっと、真紅さん?」
「しっ・んっ・くっ」
 一音ずつ区切る毎に人差し指をくるっと回す。
「真紅・・・ちゃん」
 れつ子の消極的な応えに二秒ほど考え、にぱっと笑う。オーケーなようだ。
「れつ子って、お屋敷のお姉様たちと仲良かったよね?」
 真紅の言葉にドキリとする。お屋敷のお姉様たちとはもちろん碧と琉奈のことだ。莉来も屋敷のメイドではあるが、れつ子や真紅よりも年下なのでお姉様とは言わないだろう。
「う、うん。それがどうしたの?」
 お屋敷のお姉様たちは彼女らにとって一種の憧れであった。べつにお屋敷で働いていることに対しての憧れでは無論、ない。碧と琉奈、その二人のもつ魅力が彼女たちを惹きつけてやまないのだ。当然、その二人のいるお屋敷に自由に出入りできて、しかも二人から妹のように可愛がられているれつ子への反応は人によってまちまちだ。
「もうすぐホワイトデーだよね、れつ子はバレンタインにチョコあげたの?」
 うりうり、と肘でつついてくる。
「え…」
 かぁっとれつ子の顔が赤くなる。
「やっぱりねぇ。琉奈お姉様命、だものね、れつ子は」
 判っているなら訊かないでほしい、とれつ子は思う。恥ずかしくて俯いたまま顔を上げられない。
「うっふっふぅ、やっぱりれつ子は可愛いわぁ。にふふふふ」
「真紅ちゃん、その笑い方無気味だよぉ」
「まったくだ。再三注意しても直らんのか」
 いつの間に後ろに来ていたのか、男のような喋り方をするこの人は大名普久子さん。背が高く、肩で綺麗に切り揃えられた髪が颯爽としたさまを強めており、そこらの男子よりもかっこいいと評判だ。
「む、出たなぁデカ女」
「出て悪いか。れつ子の邪魔だからさっさと失せろ」
 しっしっ、と犬でも追い払うかのように手を振る。
「がるるるる〜」
 真紅が犬のように唸る。
「わんっ」
 普久子が吠える。
「きゃうん、きゃんきゃんっ」
 貫禄負けだった。
「まったくもう…」
 苦笑するしかないれつ子。どうもこの二人を見ていると琉奈と碧を思い出す。
「琉奈お姉ちゃん、いまごろなにしているかなぁ」
 屋敷の方を見つめ、愛しい人のことを思う。それだけで、例え冷たい風が吹いていたとしてもれつ子の心は温かくなるのだった。

 その頃の琉奈。
「うるるるるぅ〜んっ」
 いじけていた。

 さらにその頃の莉来。
「くぅ〜・・・すぅ〜・・・」
 昼寝をしていた。
「うぅ〜ん、扱いがおざなりだよ〜、むにゃむにゃ」
 寝言でもツッコミを忘れないのはさすがと言うべきなのか何なのか。

 さらにさらに、その頃の屋根の上の猫。
「ふにゃあぁぁぁ」
 大きく伸びをしてあくびをする。
「お遊びはこれまでだ!」
 ───不可思議生物だった。

「れつ子〜♪」
「ひゃあっ!?」
 放課後になり、帰り仕度をしてるところをいきなり後ろから胸を掴まれ素頓狂な声をあげてしまう。
「おー、やっぱり大きい。いったい幾つあるんだー?」
 むにむに。
「ちょっ・・・真紅ちゃんやめ・・・あぁんっ」
 思わず漏らしたれつ子の声に真紅の萌え魂がヒートアップする。
「こんなに大きくなったのは琉奈お姉様のおかげかぁ? ん〜?」
「エロおやじか貴様」
 ずがし、と遠慮会釈もない一撃が真紅の後頭部にクリティカルヒットする。
「大丈夫か、れつ子。莫迦をうつされてないだろうな」
 床に沈んだ真紅をさりげなく踏み付けながら近寄る普久子。
「あ、ありがとう普久子さん。でも・・・」
 れつ子のほっとしたような困ったような、微妙な笑みの先ではぐりぐりと踏み付けられた真紅がじたばたと悶えていた。
「うにゃーっ、奇襲するなら正面から来―いっ」
「それじゃ奇襲にならんだろーがぁっ」
 ぐりぐりぐり。
「あうっあうっあうっ」
「ふ、普久子さん、もうそのへんで許してあげてください」
「甘いぞ、れつ子。こういう莫迦者は一度きっちりと躾なければいかんのだ」
 ぐ〜りぐ〜り。
「あう〜、あう〜」
「で、でも、痛そうですよ・・・」
 はぁ〜っ、と前髪を掻き揚げながら嘆息する普久子。
「判った判った。れつ子に免じて許してやるよ、ほら」
「あう〜、ちょっと気持ち良くなって来たかも・・・」
 びくりとして超高速で普久子の足が離れる。
「このわたしを感じさせるなんて、やるわね普久子さま。にふふふふ」
「くっ、変なやつだとは思っていたが、まさか変態だったとはな・・・!」
 じり、と後退る。
「れつ子、やっぱりこいつには近付くな。莫迦だけでなく、変態までうつされるぞ」
 れつ子を守るかのように背後に隠す。
「普久子さん、病気じゃないんだから」
「病気なら治るだけまだマシだ」
「そうだよね〜、莫迦と変態は死ななきゃ治らないものね〜。にふふふふ〜」
 自分で言うか。
「あの、真紅ちゃん。なにか用があったんじゃないの?」
「ん〜? れつ子の胸を揉みたかっただけー」
 その答えに二人はがっくりと肩を落とす。
「まぁ人間、自分にないものを求めるって言うしー」
 たしかに真紅の胸は薄かった。それをコンプレックスとしないあたり、かなりポジティブな性格であるらしい。
「だったられつ子でなくてもよかろうに」
「だ・か・ら」
 またもや一音節毎にくるりくるり。「れつ子の胸がいいんだって」
「まぁ、それは判らんでもないがな」
 おいおい普久子さん。と、思わずツッコミを入れそうになるれつ子。
「もう少し堪能したかったんだけど、まぁいっか。御馳走様でした」
 合掌して一礼。
「いえ、お構いもできませんで」
 つられて頭を下げてしまうれつ子。
「じゃねー」
 にふふふふーと不気味な笑い声を残してしゅたたーっと走り去る。
 呆然と、取り残される二人。ややあって、れつ子が口を開く。
「・・・なんか、無闇に楽しい人ですよね」
「・・・素直に莫迦って言った方がいいんじゃないか?」
 さすがに疲れた様子を隠せない。
「なぁ、れつ子。この後、なんか用事あるか?」
「え? えぇと、特にはないけど…」
 特に用事はないが、琉奈に会いたいな、などと思ってしまう。
「ちょっと、買い物につきあってくれないかな。オレ一人で持ちきれるか判らないから荷物持ちが欲しいんだ」
「そんなに、なにを買うんですか?」
 自慢ではないが、れつ子は腕力に自信がなかった。琉奈たちなら細身に見えても普段からハードワークをこなしているので意外と力持ちだったりするが、れつ子はごく普通の女子中学生だ。ましてや普久子が持ちきれるかどうかさえ判らないようなものを持てるとは思えない。
「ほら、オレ、バレンタインに結構チョコ貰っただろ。で、明日ってホワイトデーだからさ」
 納得した。ホワイトデーのお返し用の買い物なら、かさばったりはするかもしれないが、それほど重くなるとも思えない。
「うん、いいですよ。でも、普久子さんも大変ですね」
 そう言えば碧も大量のチョコの前で唸っていたな、などということを思い出してくすりと笑ってしまう。
「まぁな、人気者はつらいぜ」
 おどけてウィンクをしてみせる。
「じゃあ、遅くならないうちに行きましょうか」
 普久子の手を取って歩き出す。
 いまごろ琉奈はどうしているだろう。やはりれつ子のことを思いながらお返しのことをあれこれと考えているだろうか。そう思うと自然に頬が緩んでくるれつ子であった。

 いつからだろう。あのひとを慕わしく想うようになったのは。
 なにをするでもなく、ただそこにそのひとがいる。それだけのことで不思議と安らげる自分が在ることに少なからぬ驚きを覚える。
 自分はこんなにもひとに依存する性質であったのだろうか。
 いや、これは依存ではない。パズルのピースがぴたりと嵌るように、反りの合った刀と鞘がきちんと収まるように。だから、これでいいのだと、そう思う。
 あのひとは年上だが、とても可愛い。いつもにこやかで落ち着いた───というよりのほほんとした───あのひとが自分のなにげない一言で喜んだり落ち込んだり、くるくると表情を変えるさまはとても楽しい。
 それに引き換え、自分は可愛くない。あまり感情を顕わにしないし、ついひねくれた言い回しをしてしまったり、他人の目にはさぞかし可愛げのない子供に映ることだろう。
 先月のバレンタインの時だって、あのひとは直径十二インチものチョコレートケーキを焼いて来た。カカオの苦味をほのかに残したそれは自分の好みにぴったりだった。でもつい口を開いて出たのは褒めているのかいないのか判らないような可愛げのない言葉。あのひとはあからさまにガックリと肩を落としてしくしくと泣いていた。もちろん、それが演戯であることなど判っている。だって、あのひとはこちらの心などお見通しなのだから。
 まぁ、知っていてなおそんなことをするのだから、多少は文句を言いたかったのかもしれないけれど。
 ふと、温かさを感じた。
 あたたかくてやわらかくて、とてもいい香りだ。なんだろう、とても落ち着ける感じだ。まるであのひとに擁かれているよう───?
 ぱちりと、目が覚めた。
 そこには、申し訳なさそうにこちらを覗き込む顔。お団子状の髪型がトレードマークのあのひとの顔。
「ごめんさない、起こしてしまったみたいですね」
 その手には毛布の端が握られている。
「ううん」
 ぷるぷる、とかぶりを振る。なにが「ううん」なのかは自分でも判らないが。
「もう少し眠られますか?」
 ちょこんと隣に座り、ぱしぱしと膝を叩く。膝枕をするから寝ろ、と言うのだろうか。
「いい。なにされるか判らないから」
 だから、なんでこんな言い方になるのだろう。
「な、なにもしませんよ・・・ちょっとしか」
 そう言って赤くなる。何を考えているのやら。
「しかたがありません。莉来さんの寝顔は堪能しましたから、寝込みを襲うのは次の機会にします」
 はぁ、と大袈裟な溜息とともに不穏当な台詞を吐く。誰に影響されたのか、最近は微妙に危険な台詞が多い。
「本当にそんなことしたら、叩くよ」
 ジト目で見やり、できるだけ不機嫌そうな声を出す。
「スパンキング、ですか?」
 ぽかっぽかっぽかっぽかっぽかっ。
「あっ、痛い。痛いですよ莉来さん」
 痛いと言いながらもどことなく嬉しそうに聞こえるのは気のせいだろうか。
「誰、そんな言葉教えたの」
 なんとなく想像はつくのだが、あえて訊いてみる。
「えぇと・・・」
 頤に指をあて、小頸を傾げる。
「おもに琉奈さんとれつ子ちゃん、でしょうか」
 予想的中。
「他にも色々教えてもらったんですよ」
 ぱん、と両手を叩き合わせる。なぜそんなに嬉しそうなのだろう。
「なにを・・・」と聞きかけて、やめる。なんとなくこの先は聞かない方がいいのではないかという気がしてならない。
「まるで猫と犬がじゃれあっているようですわね」
 いつの間に来ていたのか、碧が腕を組んで興味深そうに見ている。
「趣味も違えば性質も違う。何の接点もないお二人ですのに・・・不思議ですわ」
 確かにその通りだ。だが、そういうことではないのだと思う。ただ、そこにいるだけでいい。そう思えるなにかがあるならそれでいいのだ、と。
「そう・・・ですね。でも、莉来さんといると、とても落ち着けるのです。莉来さんの隣が、私にとって一番居心地の良い場所なのかもしれません」
 はにかみながら言う凛。聞いている方が恥ずかしくなりそうだ。
「ふぅん」
 珍しく、碧が悪戯っぽい声をあげる。
「まんざらでもないようですわね。ねぇ、莉来さん?」
 言われて初めて、自分が微笑んでいたことに気がついた。

 晧々たる月が夜を照らす。
 さら、さら、さら───
 月の光が微かな風に乗って夜気にたゆたう。
 さら、さら、さら───
 水底に眠る遺跡のように。
 さら、さら、さら───
 ただ、静かだった。
 その中で、全身に月の光を浴びている。長く艶やかな髪が夜風に流され、さら、さら、さら───と涼やかな音を奏でる。
 さく、と草が鳴いた。
「露湿墻花春意深
 西廊月上半牀陰
 憐君独臥無言語
 惟我知君此夜心」
 玲瓏たる声が夜気を震わせる。
「白居易ですか」
 琉奈は振り返りもせずに声の主に話し掛ける。その声には微かに苛立ちの色が混ざっていた。
「見透かしたような物言いは不愉快ですよ、碧さん」
 苛立ちを隠すかのように、ゆるやかに振り返る。はたしてそこに物言いたげに立っていたのは碧であった。
「随分と似合わない真似をなさっておられますわね。その平たい胸では絵になりませんでしょうに」
「大きなお世話です。こんな夜中にわざわざ嫌味を言う為に来るなんて、碧さんも随分とお暇なんですね」
「まぁ、そういきりたつものでもありませんわ」
 かみつく琉奈の頭をぽんぽんと叩き、その横に立つ。
「本当はご主人様と一緒に月見酒と洒落込もうと思っていたのですけれど、琉奈さんと一緒に月光浴というのも悪くありませんわね」
「碧さん…?」
 碧の意図が読めず、困惑の表情を浮かべる琉奈。
「あぁ、今夜は本当に月が綺麗ですこと。そうは思われません?」
「それはそうですけど、でも、碧さん…!」
 ふわり、と夜気に爽やかな香りが漂った。そう思ったとき、琉奈は碧に抱きしめられていた。やわらかな、包み込むような抱擁だ。
「碧…さん…?」
「れつ子さんのことでお悩みですのね」
 びくり、と琉奈の身体が強張る。
 碧はそっと琉奈の身体を離し、琉奈の大きめな眼鏡を外す。
「碧さん、なにするんですか!?」
「ほら、こうするとまるで朧月夜みたいでしょう?」
 悪戯っぽく笑う碧。
「貴女の心にかかっている霞を流すにはこうした方がいいと思いますの。まぁ、わたくしのことは朧月の精とでも思ってくださいな」
 皓月の下で無茶を言う。
「あ、あはっ、あははははっ、碧さん、無理ありすぎですよー」
 お腹を抱えて笑う琉奈。それに不満そうな視線を向ける碧だが、当然琉奈にはそんなことは判らない。
「でも、そうですね。そうかもしれません」
 ひとしきり笑った後、琉奈の顔から苛立ちの表情はなくなっていた。
「…れつ子ちゃんのことは、とても好きです。れつ子ちゃんもわたしを好いてくれていることは判っています。でも、いいえ、だからこそ、このままでいいのかなって、不安になるんです」
 碧は無言のまま、琉奈の言葉を聞くでもなく流すでもなく、本当に朧月の精ででもあるかのように、ただそうしていた。
「れつ子ちゃんはまだ中学生ですし、これから先にまだまだ素敵な出会いが待っている筈なんです。かっこいい男の子に恋をするかもしれません。そうなった時にわたしはれつ子ちゃんの重荷になるかもしれない、そう思うと怖いような申し訳無いような、なんとも言えない気持ちになるんです」
 琉奈の身体がぶるっと震える。身体と心、どちらの寒さによるものなのかは碧には判らなかった。
「だから、れつ子ちゃんのためにも、今のうちに───」
「今のうちに距離を置こうと言う訳ですの?」
 不意に、碧が割り込む。その声にはあからさまな軽蔑の色が見て取れた。
「碧さん…?」
「碧ではなく、朧月の精ですわ」
 まだ言うか。
「まぁそれはともかく、琉奈さん、貴女はれつ子さんのことを随分と見損なっていらっしゃるのですね。幻滅ですわ」
 本気で怒っているらしいと判り、琉奈は慌てた。
「どうして碧さんがそんなに怒るんですっ。それに、わたしがれつ子ちゃんを見損なっているってどういう意味ですかっ!」
「わたくし、琉奈さんとれつ子さんが羨ましかったのですわ」
 え? と言葉を失う琉奈。碧の真意が見えない。さっきから碧には驚かされっぱなしだ。
「貴女たちの仲の良さが、慈しみあうその姿が、とても美しく輝いて見えていましたのに…ただのメッキでしただなんて、ひどい話ですわ」
 雲がかかったのか、晧々とした月光がわずかに翳る。
「琉奈さん、もっとれつ子さんを信じられてはいかがですか」
「ど、どういう意味です。わたしがれつ子ちゃんのことを信じていないとでも言うんですかっ!?」
「たとえ何があれ、れつ子さんが貴女を重荷に思うことなんてありえませんわ。仮にれつ子さんが男の方をお好きになられたとしても、しっかりした方ですもの、その時ははっきりと貴女にそのことをお伝えになられる筈ですわ。だいたい、判りもしない先のことをあれこれ考えてうじうじなさっていても仕方がないでしょう?」
 やや突き放した言い方ながら、その中に琉奈を思いやる気持ちがこもっていることに気付き、琉奈は驚くとともに嬉しくなる。だが、そんな思いはおくびにも出さない。
「碧さんって、意外と大雑把な方だったんですねー」
「考えても意味のないことは考えないようにしているだけですわ。それから、碧ではなくて朧月の精だと言っているでしょう」
 碧はわりとしつこかった。
「碧さん…」
 ぽふ、と頭を碧の胸に預ける。いつもはムカついてたまらない胸だが、今だけは安らげる気分だった。
 雲が晴れて、ふたたび晧々たる月がその顔を覗かせる。さっと風が吹き、咲き始めた花の香りを漂わせる。
「…もう、大丈夫なようですわね」
 そう言って、琉奈の顔を上げさせる。その顔からは既に先程までの翳りはなくなっていた。まるで、風が天の雲と一緒に吹き払ってしまったかのように。そう、それはきっと碧色の爽やかな風。
「これはお返ししますわ」
 そっと、琉奈の顔に眼鏡を掛ける。
 朧月は消え、皓月が琉奈を照らす。もはや、霞はどこにもない。
「さて、わたくしはこれで失礼させていただきますわ。明日は体力勝負になりますから、きちんと休んでおきませんと」
 はふ、と小さくあくびをして琉奈に背を向ける。
「明日? なにかありましたっけ……あーっ!」
 がくり、と膝をつく。
「そうでした…明日はホワイトデーでした。これは一生の不覚」
 たらり、と一筋の汗がこめかみを伝う。
「琉奈さん、貴女まさか…」
 どうやら、そのまさかであるらしい。
「あぁ、どうしてこううっかりさんなんですか貴女は。昼間、貴女にお返しをいたしましたじゃありませんの」
「唐辛子の辛さでそんなものブっとびましたよ! あぁ、もう、碧さんのせいじゃないですか!」
「なにをおっしゃいますの! 貴女が迂闊なだけでしょう!」
 ばちばちばちばちばち───!
 二人の間に火花が飛び散る。
「判りました。わたくしも明日は凛さんと一緒にお返しのクッキーを作ることになっていますから、貴女もいらっしゃるがよろしいですわ」
「なるほど、判りました。そうさせていただきます」
 ばちばちばち。
 ふん、と鼻息も荒くお互いに背を向け合い、別々の方向に歩き去る。
 後にはただ、月が白く輝いているだけであった。

 バレンタインデーが、ローマ皇帝クラウディウスの出した恋愛による結婚禁止令に違反した男女を救うために二月十四日に殉死した聖ヴァレンティヌスを記念して設けられたものである、ということはわりと知られている。
 そして、その一ヶ月後である三月十四日にあらためて愛を誓い合う日がホワイトデーである筈なのだが…と碧は思う。
「なぜわたくしだけがこんなに…」
 琉奈と凛はすでに自分が必要な分は作り終え、ラッピングにとりかかっている。凛の指導のもとに作られたラムクッキーはそのまま店に出せるくらいの出来映えであり、味に関しては全く問題はない。が、しかし、碧の前にはクッキーを詰めるための箱、箱、箱。これでもか、とばかりに積まれた箱が碧に眩暈を起こさせる。
「碧さん、私も手伝いますから、倒れないでください」
 凛が手早くラッピングを済ませて碧に駆け寄る。が、やはりその山のような箱を見て一瞬言葉に詰まる。
「仕方ないなぁ、手伝いますよー」
 琉奈ものんびりと碧のもとに寄り、「うぇ」と正直な感想を洩らす。
「これは、仕方ないですね───Iron Maiden!」
 スタンドまで発動して箱詰めを開始する。
「あぁ、琉奈さんがいてくれて本当に助かりました」
 心底、ほっとした様子の凛。
「礼は言っておきますわ」
 手は動かしたまま、そっと礼を言う碧。
「まぁ、助かったのはわたしも同じですし、お互い様ってことでいいじゃないですか」
 その時、時計が三時を告げた。
「放課後になるまでに仕上げますわよ!」
「「はいっ!」」
 なにか違うような気はするが、愛の為に頑張る乙女たちであった。
 今日は三月十四日。
 さぁ、愛を伝えよう───!

Fin


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